松平 氏信(まつだいら うじのぶ)は、江戸時代前期の旗本形原松平家6代当主・松平家信の四男。通称は大学、修理。官位従五位下修理亮内蔵允左馬允民部少輔伯耆守。号は意休。

 
松平氏信
時代 江戸時代前期
生誕 慶長18年(1613年
死没 天和3年6月16日1683年8月8日
別名 通称:大学、修理、号:意安
戒名 覚涼院殿
墓所 牛込の法正寺
官位 従五位下修理亮内蔵允左馬允民部少輔伯耆守
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家光家綱
氏族 形原松平家
父母 父:松平家信
兄弟 康信重信氏信信忠信昌
石川正重室、松平広永室、松平康比室、櫛笥隆朝室、和田重富室、
井伊直好継室、晃玄
久貝正世
氏清、八兵衛、伊奈宗英室、
本多重寛室、渡辺方綱正室、久貝正方氏辰高重能勢頼方室、遠藤常就室、施薬院宗屋
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略歴

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寛永2年(1625年)3代将軍・徳川家光に拝謁する。中奥御膳番、書院番、西城小姓組番頭、4代将軍・徳川家綱の書院番頭、大番頭御側を歴任する。父の遺領2000石を合わせ武蔵国下総国に計6000石を領した。

延宝5年(1677年)に致仕し、天和3年(1683年)、死去。享年71。法名は覚涼院殿。墓所は牛込にある法正寺。家督は、長男・氏清が病気により継承を辞退していたため、四男・氏辰が継いだ。

系譜

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