松平伊忠
松平 伊忠(まつだいら これただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。松平好景の長男。深溝松平家3代。三河国額田郡深溝城主(愛知県額田郡幸田町深溝)。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 天文6年(1537年) |
死没 | 天正3年5月21日(1575年6月29日) |
別名 | 又八郎、主殿助 |
戒名 | 慈光院殿悟渓源了大居士 |
墓所 | 本光寺(愛知県額田郡幸田町深溝) |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 深溝松平家 |
父母 | 父:松平好景、母:松平清定娘 |
兄弟 | 伊忠、親定、小笠原安次室、松平信一継室、松平清宗室 |
妻 | 正室:鵜殿長持の次女 |
子 | 家忠、忠勝、伊長、玄成、松意、ちいは、おさち、萬松院、おいち |
略歴
編集第2代当主・松平好景の長男として誕生。
永禄4年(1561年)に中島城(愛知県岡崎市中島町)を預かるが、同年4月15日、東条城の吉良義昭に攻められた酒井忠尚の守る上野上村城(豊田市上郷町)に援軍として出兵中に、手薄となった中島城を義昭方に襲われ、深溝城より救援に駆け付けた父・好景が善明堤の戦いで討死したため、深溝松平家の3代目を継いだ。
永禄6年(1563年)、武田信玄の軍勢が長沢城に攻めてきたが、小競り合いということもあって伊忠はこれを撃退している。また、同年に起こった三河一向一揆では、一揆方として深溝城近郷の野羽城(六栗城との説も)に籠る大津半右衛門、乙部八兵衛、夏目吉信を攻略、乙部八兵衛を内応させて夏目吉信を生け捕りにした。のちに夏目吉信は伊忠の嘆願により帰参が許された。
その後も永禄8年(1565年)吉田城攻略戦、永禄12年(1569年)の掛川城攻城戦、元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いなど主要な合戦へはいずれも参戦、家康初期の功臣として武功には目覚しいものがあった。
天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにも参戦し、同月20日の夜、織田信長の命を受けた酒井忠次が率いる別働隊の一翼を担い、夜陰に乗じて鳶ヶ巣山の攻略に向かった。翌21日早朝、敵将・武田信実(信玄の弟)を討ち取るという功績を挙げる。しかし、引き続き行われた残敵追撃戦で前線に出過ぎたため、退却する武田軍の小山田昌行率いる500騎に、後ろから猛反撃を受けて討死した。享年39。
墓所は深溝松平家の菩提寺・瑞雲山本光寺。法名は「慈光院殿悟渓源了大居士」。伊忠が討死したとされる地(愛知県新城市有海)には、松平伊忠戦死之地の石碑がある。
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜.第1輯』巻第29 國民圖書(1922年出版) 148-150頁
- 『家康と松平一族』 安城市歴史博物館編集(2021年発行) P.38~42深溝家