松平乗利

日本の江戸時代後期の大名。三河奥殿藩6代藩主松平乗羨長男で、奥殿藩7代藩主。真次流大給松平家10代当主。従五位下石見守。日光祭祀奉行・江戸城御門番・大坂加番等を歴任

松平 乗利(まつだいら のりとし)は、江戸時代後期の大名三河国奥殿藩7代藩主。真次流大給松平家10代。官位従五位下石見守

 
松平乗利
時代 江戸時代後期
生誕 文化8年3月18日1811年5月10日
死没 嘉永7年8月27日1854年10月18日
改名 左七郎(幼名)→乗利
戒名 諦覚院
墓所 東京都港区赤坂の浄土寺
愛知県岡崎市奥殿町雑谷下10の奥殿陣屋
官位 従五位下石見守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
三河奥殿藩
氏族 大給松平家
父母 父:松平乗羨、母:池田政恭の養女
兄弟 乗利、媛、吉田某室
正室:松平乗全の娘
乗謨、窈子
テンプレートを表示

生涯

編集

文化8年(1811年)3月18日、6代藩主・松平乗羨の長男として江戸で誕生した。文政10年(1827年)10月16日、父の死去により家督を継ぐ。文政11年(1828年)10月1日、11代将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下・石見守に叙位・任官する。幕命により日光祭祀奉行・大坂加番江戸城御門番役などを歴任した。

藩政では文武を奨励し、藩校明徳館を設立する。また藩財政の悪化で5ヵ年にわたる倹約令などを出したが効果はなく、天保7年(1836年)9月に三河加茂郡を中心とした加茂一揆が起こっている。しかし天保の大飢饉では万全の備蓄体制を施していたことにより、餓死者を出さなかった。

嘉永5年(1852年)3月5日に隠居する。家督は3月7日に長男の乗謨が継いだ。嘉永7年(1854年)8月27日に死去する。享年44。

一説には乗利は傀儡の藩主であり、実際の藩政は一族の永井尚志(5代藩主松平乗尹の子で、乗利の従叔父にあたる)によって行なわれていたとされている。

系譜

編集

父母

正室

子女