松前章広
日本の大名
松前 章広(まつまえ あきひろ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。蝦夷地松前藩9代藩主。官位は従五位下若狭守。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 安永4年7月30日(1775年8月25日) |
死没 | 天保4年9月25日(1833年11月6日) |
改名 | 勇之介(幼名)、敷広(初名)、章広 |
戒名 | 霊照院殿復州性馨大居士 |
官位 | 従五位下若狭守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 蝦夷松前藩主、陸奥梁川藩主、蝦夷松前藩主 |
氏族 | 松前氏 |
父母 | 松前道広、平田氏 |
兄弟 |
章広、男子、蠣崎広匡、竹子、増子、 女子、杉村治義、広純、幸之助、連之助、澄子、岩子、琴子 |
妻 | 笠原紋十郎姉 |
子 |
市之助、染子、欣子、見広、久之助、 伊勢子、初子、朗子、成子、聿子、重広、広経、崇広 養子:友子 |
生涯
編集安永4年(1775年)、8代藩主・松前道広の長男として誕生。寛政4年(1792年)10月28日、父・道広の隠居により、家督を継ぐ。同年11月11日、11代将軍・徳川家斉にお目見え、従五位下若狭守に叙任する。
寛政11年(1799年)3月21日、東蝦夷地を幕府に一時的に没収された。それに伴い、武蔵国埼玉郡内に5千石を与えられた。享和元年(1801年)7月21日、幕府は東蝦夷地支配の永続化を決定し、武蔵国内の領地5千石も収公、毎年3500両を支給することにした。文化4年(1807年)3月12日に所領を西蝦夷地から陸奥国伊達郡梁川藩に9千石で移封された。文政4年(1821年)12月4日に旧領に復した。
復領は、ロシアからの脅威が低くなったという名目で行われたが、内実は父・道広の伝手から将軍・徳川家斉の父・一橋治済に接近、老中水野忠成への莫大な賄賂攻勢を行い、家斉に請願した結果であることが、「水戸烈公上書」や「藤田東湖見聞偶筆」に記されている[1]。天保2年(1831年)、1万石に復す。
天保4年(1833年)、死去。享年59。文政10年(1827年)に次男・見広が死去したため、家督は見広の長男・良広が継いだ。
系譜
編集父母
- 松前道広(父)
- 平田氏 ー 側室(母)
側室
- 笠原紋十郎の姉
- 秋野菅子
- 福島成子
子女
- 松前崇広(六男)生母は側室
- 松前市之助
- 染子 ー 高野保右室
- 欣子 ー 蛎崎広得室
- 松前見広
- 松前久之助、久広(三男)
- 伊勢子 ー 松平定央室
- 初子 ー 松前広重室
- 朗子(五女)
- 成子
- 聿子
- 松前重広
- 松前広経
養女
出典
編集- ^ “松前藩復領の経緯”. 函館市史 (函館市) 2014年12月13日閲覧。