松ヶ崎村 (京都府)
日本の京都府愛宕郡にあった村
松ヶ崎村(まつがさきむら)は、かつて京都府愛宕郡に存在した村である。1889年(明治22年)の町村制発足により設置され、1931年(昭和6年)4月1日、京都市左京区に編入合併して消滅した。
まつがさきむら 松ヶ崎村 | |
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廃止日 | 1931年4月1日 |
廃止理由 |
編入合併 京都市、愛宕郡修学院村、松ヶ崎村 → 京都市(左京区) |
現在の自治体 | 京都市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 京都府 |
郡 | 愛宕郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
隣接自治体 | 京都市(左京区)、愛宕郡修学院村、上賀茂村、岩倉村 |
松ヶ崎村役場 | |
所在地 |
京都府愛宕郡松ヶ崎村字堀町 (現・京都市左京区松ヶ崎堀町) |
座標 | 北緯35度02分55秒 東経135度46分43秒 / 北緯35.04858度 東経135.778575度座標: 北緯35度02分55秒 東経135度46分43秒 / 北緯35.04858度 東経135.778575度 |
ウィキプロジェクト |
概要
編集高野川以西、深泥池の東南に位置し、宝ヶ池をとりまく松ヶ崎丘陵およびその麓の低地を中心とする。
北は愛宕郡岩倉村(現:左京区岩倉)、東は高野川を挟んで愛宕郡修学院村(現:左京区上高野・修学院・山端)・愛宕郡田中村(現:左京区高野)、南は愛宕郡下鴨村(現:左京区下鴨)、西は愛宕郡上賀茂村(現:北区上賀茂)に囲まれており(発足当時。なおこのうち田中村・下鴨村は1918年京都市上京区に編入され、その後左京区新設にともないこれに編入された)、村の境域は現在の左京区松ヶ崎(松ヶ崎を町名に冠する地域)にほぼ相当するごく狭い区域であった。
松ヶ崎では平安京遷都直後から米作りが行われた記録があるほか、源氏物語の夕霧の帖にも「松が崎」の名が現れている[1][注釈 1]。
稲作を中心とし、麦や菜種を裏作で作る豊かな土地だったが、「松ヶ崎定法」と呼ばれる地域の定めに従い、豊かさを維持するために分家が厳しく禁じられ[2]、江戸時代を通じてほとんど人口が変動しなかった[2]。松ヶ崎村の京都市への編入により「定法」による縛りが緩まったことなどから、1931年以降は急速に人口が増加しているが、松ヶ崎村であった時代には「定法」の影響が残り、1873年の人口544人が1931年では1,025人に増加した程度にとどまっていた[3]。
沿革
編集大字・字
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主要産業
編集稲作を主産業とし、裏作で麦や菜種が栽培されていた[2]。
各種施設・企業(1931年4月時点)
編集- 公共機関
- 松ヶ崎村役場(現:松ヶ崎堀町) - 1870年設立。跡地は現・松ヶ崎小学校の校地の一部となっている。
- 教育機関
- 松ヶ崎小学校(現:松ヶ崎堀町)
- 1873年(明治6年)4月18日創立[4]
- 1908年(明治41年)3月31日廃校[5]
- 1908年(明治41年)4月1日、修学院村と共同組合立の「格知校」に改称、移転[5]。
- 1916年(大正5年)3月31日、格知校廃校[6]。
- 1916年(大正5年)4月1日、松ヶ崎尋常小学校と改称し、1908年以前の位置に復帰[6]。
- 1917年(大正6年)4月1日、高等科を設置、松ヶ崎尋常高等小学校となる[6]。
- 1931年(昭和6年)4月1日、松ヶ崎村が京都市に編入されたことにより、京都市立松ヶ崎尋常高等小学校と改称される[6]。
- 京都高等工芸学校(現:松ヶ崎橋上町)
- 寺社
- その他
交通(1931年4月時点)
編集脚注
編集注釈
編集- ^ ことに深き道ならねど、 松が崎の小山の色なども、さる巌ならねど、秋のけしきつきて、 都に二なくと尽くしたる家居には、なほ、あはれも興も まさりてぞ見ゆるや。
- ^ 北山通建設で架け替えられるまでの旧橋。
- ^ 現在の京都府道103号上賀茂山端線。