李若初
経歴
編集貞観年間の并州長史・工部侍郎の李弘節の曾孫にあたる。祖父の李道謙は太府寺卿となった。若初は幼くして父を失い、貧苦の中で成長した。はじめ転運使の劉晏の下で地位の低い暇仕事をしていた。劉晏の判官の包佶がかれの勤勉で才幹あるのを重んじて、その娘をかれにめあわせた。若初は太康県令となった。陳州刺史の李芃が着任すると、若初は計策を献じて、陳州で収奪した剰余銭や物品を請いうけ、権貴と交際して結びつかせたので、李芃はかれを厚遇した[1]。建中2年(781年)[2]、李芃が河陽三城使に転出すると、若初はその下で従事となり、軍中の事務の多くが委ねられた。若初は官歴を重ねて検校郎中・兼御史中丞・懐州刺史に任じられた。虢州刺史に転じたが、公務中の事件で罪に問われ、観察使の弾劾を受けて、免官されて帰郷した。長らくを経て、衢州刺史として出向した[1]。貞元11年(795年)2月[3]、福州刺史・兼御史中丞・福建都団練使となった。貞元13年(797年)3月、明州刺史[4]・浙江東道都団練観察使に転じた。貞元14年(798年)9月[5]、王緯に代わって潤州刺史・御史大夫・浙江都団練観察・諸道塩鉄転運使となった。貞元15年(799年)1月甲戌[6]、病没した。礼部尚書の位を追贈された[1][7]。
脚注
編集伝記資料
編集参考文献
編集- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6。