李希光

中国の北魏末から北斉にかけての軍人

李 希光(り きこう、生年不詳 - 556年)は、中国北魏末から北斉にかけての軍人本貫渤海郡蓨県[1][2][3]

経歴

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北魏の長広郡太守の李紹の子として生まれた。普泰元年(531年)、高乾の下で高歓の信都起兵に従った。中興元年(同年)、安南将軍・安徳郡太守に任じられた。後に長広郡公高湛の下で開府長史をつとめた。武定7年(549年)、高岳に従って潁川を平定し、義寧県開国侯に封じられた。潁州梁州南兗州刺史を歴任した。北斉の天保年間、揚州刺史となった[1][2][3]洛州刺史[4][5]となったともいう。

天保7年(556年)3月、希光は蕭軌東方老裴英起王敬宝らとともに長江を渡って柵口に進出し、梁山に向かった。の帳内盪主黄叢の迎撃を受けて敗れ、前軍の船艦を焼かれた。軍を整えて蕪湖を保った。5月、秣陵故城に到達した[4][5]石頭城を襲撃して攻め落とした[1][2][3]。6月、蕭軌らとともに鍾山の西で陳霸先率いる梁軍と戦い、長雨に遭って敗れ、捕らえられて殺害された[6][7][8][9][10][5]開府儀同三司西兗州刺史の位を追贈された[1][2][3]

子に李子令があり、尚書外兵郎中となった。武平末年、通直散騎常侍の位を受けた。開皇年間、易州刺史として死去した[1][2][3]

脚注

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  1. ^ a b c d e 氣賀澤 2021, p. 298.
  2. ^ a b c d e 北斉書 1972, p. 300.
  3. ^ a b c d e 北史 1974, p. 1150.
  4. ^ a b 陳書 1972, p. 10.
  5. ^ a b c 南史 1975, p. 263.
  6. ^ 氣賀澤 2021, p. 91.
  7. ^ 北斉書 1972, p. 61.
  8. ^ 北史 1974, p. 1148.
  9. ^ 梁書 1973, p. 146.
  10. ^ 陳書 1972, p. 11.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『周書』中華書局、1971年。ISBN 7-101-00315-X 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 
  • 『梁書』中華書局、1973年。ISBN 7-101-00311-7 
  • 『陳書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00312-5 
  • 『南史』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00317-6