札幌丘珠事件
札幌丘珠事件(さっぽろおかだまじけん)とは、1878年(明治11年)1月11日から1月18日にかけて北海道石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現在の北海道札幌市東区丘珠町)で発生した、記録されたものとしては日本史上4番目に大きな被害を出した熊害事件[1]。冬眠から目を覚ましたエゾヒグマが猟師や開拓民の夫婦を襲い、死者3名、重傷者2名[2][3]を出した[note 1]。
事件の経緯
編集札幌市は2021年のピーク時に人口約198万人に達した東北以北最大の都市だが、事件当時は和人の定住者が現れてから20年あまり、市街地の整備や農地の開墾は急ピッチで進められていたものの、市域を少し出れば原始そのままの大森林や草原に覆われていた。人口は、現在の札幌市中心部にあたる「札幌区」で3,000人、後に札幌市に組み込まれることになる周辺の農村すべての人口を合計しても、8,000人に満たなかった[3]。
第一の事件
編集1878年(明治11年)1月11日、爾志(にし)通(現在の札幌市中央区南2条)在住の猟師・蛭子勝太郎[3]が郊外の円山山中で、冬眠中のヒグマを発見した。早速狩ろうと試みたものの撃ち損ねてしまい、逆襲を受けた勝太郎は死亡した。冬眠を妨げられたヒグマは、飢えて札幌の市街地を駆け抜けたため、17日、札幌警察署警察吏の森長保が指揮を執る駆除隊が急遽編成された[3]。
同日、豊平川の川向こうに当たる平岸村(現在の札幌市豊平区平岸)で件のヒグマを発見し、追撃を開始する。しかしヒグマは月寒村(現在の豊平区月寒)、白石村(現在の札幌市白石区)と逃走。再度豊平川に向かうルートを取ったため、駆除隊も雪上に残る足跡を頼りに後を追う。そして再度豊平川を渡り、雁来(現在の札幌市東区東雁来)までは確認したが、猛吹雪のため見失ってしまった[3]。これらの地は現在でこそ一面の住宅街だが、当時は畑が拓かれ始めたばかりの大森林地帯だった。
第二の事件
編集札幌区の北東に位置する丘珠村(現在の札幌市東区丘珠町)。地名の「おかだま」は、アイヌ語の「オッカイ・タㇺ・チャラパ」(男が刀を落としたところ)に由来する[4]。この地は後に伏籠川の自然堤防が育んだ良質な土壌を生かしたタマネギ栽培で名を成すことになるが、当時は古木が延々と連なる森林地帯が広がっていた。その中に細々と拝み小屋[note 2]を結ぶ数百人ほどの村民たちは、その多くが札幌区に売り出す木炭の製造で生計を立てていた。明治4年ころこの地に入植した堺倉吉(事件当時、44歳)と妻・リツ(利津)(事件当時、36歳)の夫婦もそのような開拓民だった[5]。リツはもともと南部の生まれで19歳の折に「蝦夷地」に渡って倉吉と結ばれるものの箱館戦争の混乱に巻き込まれ内地に戻ることはかなわず、結局、夫婦で丘珠に入植したのだった[6]。二人は周囲の村民同様に寒風舞い込む拝み小屋の生活に耐えつつ、炭を焼いては札幌区に売り出す生活に勤しむ。やがて夫妻には待望の長男・留吉が生まれ、貧しい生活にも燭光が灯りつつあった[note 3][3] 。
17日深夜、円山から白石、そして雁来へと逃走を重ねた件のヒグマが、突如として堺一家の小屋を襲ったのである。異変を察知して起き出した倉吉は、筵の戸を掲げたところで熊の一撃を受けて昏倒。妻・リツは幼い留吉を抱いて咄嗟に逃げ出したものの、後頭部にヒグマの爪を受けてわが子を取り落してしまった。リツは頭皮をはぎ取られる重傷を受けつつ、伏籠川対岸の雇い人・石澤定吉[7]に助けを求めるが、その間にヒグマは雪原に投げ出された留吉を牙に掛けていた。結果として倉吉と留吉が食い殺され、リツと雇い人は重傷を負った[8][3]。
18日昼、件のヒグマは駆除隊によって付近で発見され、射殺された。駆除に功のあった佐々木直則、渋谷永貞、武田守約の3人には、日当50銭のほか特別手当として2円が支給された[9]。
被害者の性別と内訳
編集『札幌事件簿』はじめ従来に流布していた書籍の記述では、加害熊が丘珠村の堺一家を襲ったおりの死者、重傷者は「死亡:堺倉吉、留吉」「重傷:リツ、雇人(女性)」とされていた。だが近年、北海道公文書館『開拓使公文録』の『明治十一年 長官申届上申書録』より次の文章が発見された。
上記の文章によれば、丘珠村の惨事での被害者は「死亡:堺倉吉、留吉、雇人の酉蔵(男性)」「重傷:リツ、雇人の石澤定吉」で死者3名、重傷者2名になり、先の円山で死亡した蛭子勝太郎も加えれば死者4名、重傷者2名になる[10]。
解剖の顛末
編集加害ヒグマはオスの成獣で、体長は1.9mもあった。警察署の前でしばらく晒し者にしたのち札幌農学校に運び込まれ、教授の指導のもと学生たちの手で解剖された[9]。昭和8年(1933年)発行の『恵迪寮史』の記述によれば、その熊は全く脂肪がなかったという。おそらく冬眠に備えての食いだめができず、雪中では餌を求めることも叶わず、進退窮まった末に暴挙に及んだことは疑いない、と推察されている[11]。
当時、札幌農学校の第一期生として同席した大島正健は、晩年の昭和12年(1937年)に口述筆記させた回顧録『クラーク先生とその弟子たち』において、加害熊解剖の顛末を物語っていた[8][12]。
思わぬ材料に恵まれ歓喜の声をあげた学生たちは、ペンハロー指導教授のもとにさっそく解剖実習に取り掛かった。(中略)教授の目をかすめて二三のものがひそかに一塊の肉を切り取った。そして休憩時間を待ちかねて小使部屋に飛び込んだ。やがてその肉片が燃えさかる炭火の上にかざされた。そして醤油にひたす者、口に投げ込む者、我も我もと珍しい肉を噛みしめていたが、だれ言うとなく
「熊の肉は臭いなァ、恐ろしく堅いなァ」
という声がほとばしり出た。
定刻になって師の呼ぶ声に一同は何食わぬ顔をして解剖室に集り、手に手にメスをふるって内臓切開に取り掛かったが、元気のよい学生の一人が、いやにふくらんでいる大きな胃袋を力まかせに切り開いたら、ドロドロと流れ出した内容物、赤子の頭巾がある手がある。女房の引きむしられた髪の毛がある。悪臭芬々目を覆う惨状に、学生はワーッと叫んで飛びのいた。そして、土気色になった熊肉党は脱兎のごとく屋外に飛び出し、口に指を差し込み、目を白黒させてこわごわ味わった熊の肉を吐き出した。
後に訪ねてきた内田瀞[note 4]が
「あの肉は酸味があって堅かったのゥ」
とありし日を思い出して述懐していたが、事実何とも堅い肉で、口へ入れてみたが、私にはそれをのみ込んで胃の腑へ収める勇気は出なかった。
もう一人、解剖に参加した黒岩四方之進(明治時代の作家、ジャーナリストである黒岩涙香の兄)の回顧録が、大正15年(1926年)5月19日付の『小樽新聞』紙上に載せられている[13]。
なお、解剖担当者の中には、農学校の2期生として入学した当時1年生だった新渡戸稲造もいた。
その後
編集このヒグマの剥製は開拓史博物館に仮保存された。そして事件から3年後の明治14年(1881年)9月1日、北海道行幸中の明治天皇の「天覧」に浴した[14]。昭和初期に記された『明治天皇御巡幸記』ではこの時の模様を「物産課長以下玄関前に奉迎、課長御先導、陳列品を天覧あらせらる。前年丘珠村にて民家に入り人を喰ひし熊の剥製は殊に共奉員等の注目を惹きしと云ふ」と記す[15][note 5]。剥製は北海道産最古のものとなっている[16]。その後、ヒグマの胃の内容物をアルコールに漬けて保存したもの[note 6]とともに、現在でも北海道大学植物園に保存されている[17][2]。事件の跡地は札幌市立丘珠小学校の敷地となった[17]。
夫と息子を失ったリツは長らく入院し、不憫に思った行政側は彼女が再婚するまで扶助していた。北海道博物館には、老境に至ったリツの写真が残されている[9][note 7]。この写真が撮影された明治43年(1910年)、札幌の人口は8万人に達していた[9]。
備考
編集当該事件が発生した地点の詳細は、札幌飛行場(丘珠空港)から徒歩5分程度の地点に現存している丘珠神社(北海道札幌市東区丘珠町183番地4にある神社)からさらに北北東の方角に徒歩15分程の位置である。
脚注
編集注釈
編集- ^ のちに死亡した重傷者1名も加えれば、死者は4名となる
- ^ 三角屋根の簡素な小屋。両手を合わせたような形だったため、この名がつけられた。合掌造りと語源は同じである。
- ^ 中山茂大『神々の復讐』p49によれば、明治4年度の『札幌郡丘珠村人別調』に堺一家の構成が記されている。「堺倉吉 三十七」「妻 利津 二十九」「女 正 二」「母 喜登 六十五」。事件で死亡した留吉は男児であり、母親は事件では言及されていないので、中山は「倉吉の母親と女児は事件前に死亡し、その後に留吉が生まれたのかもしれない」と推理している
- ^ 内田瀞は、新渡戸稲造や内村鑑三ら「札幌バンド」の一員である。
- ^ 2日後の9月3日、明治天皇は白老郡で、同地のアイヌ民族が特別に挙行した模擬的なイオマンテを鑑賞している
- ^ 大島正健の『クラーク先生とその弟子たち』は、加害熊解剖の折の顛末に続いて、「傷が癒えた倉吉の女房」がヒグマの胃の内容物が収められたガラス瓶を目にして半狂乱になるありさまを淡々と記している。そのガラス瓶は平成初期までは来場者が自由に観覧することができた。平成後期以降は収蔵庫に収められ、一般公開はしていない。また、加害熊の剥製も劣化が激しいため、一般公開はされていない。
- ^ 『札幌事件簿』p44に「北海道開拓記念館蔵」としてリツの写真が掲載されている。この写真は、一般への公開はされていない
出典
編集- ^ 木村盛武 1976, p. 117-119.
- ^ a b “道内の被害史 関連記事”. 北海道新聞. 2010年11月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g 札幌事件簿 1986, p. 43.
- ^ 山田秀三 1984, p. 25.
- ^ 中山茂大 2022, p. 49.
- ^ 中山茂大 2022, p. 48.
- ^ 中山茂大 2022, p. 47.
- ^ a b 大島正健 1993, p. 126-128.
- ^ a b c d 札幌事件簿 1986, p. 44.
- ^ 中山茂大 2022, p. 53.
- ^ 中山茂大 2022, p. 55.
- ^ 中山茂大 2022, p. 56-57.
- ^ 中山茂大 2022, p. 58.
- ^ 明治天皇御巡幸記 1930, p. 49.
- ^ 『明治天皇御巡幸記』1930年 p49
- ^ 門崎允昭 2019, p. 15.
- ^ a b 木村盛武 2008, p. 117-119.
参考資料
編集- 北海道庁『明治天皇御巡幸記』北海道庁、1930年。
- 山田秀三『北海道の地名』北海道新聞社、1984年。ISBN 978-4893633217。
- 札幌市教育委員会『札幌事件簿』北海道新聞社、1986年。ISBN 978-4893630360。
- 大島正健『クラーク先生とその弟子たち』教文館、1993年。ISBN 978-4764265233。
- 木村盛武『慟哭の谷‐埋もれた苫前事件の謎』共同文化社、2008年。ISBN 978-4-905664-89-5。
- 門崎允昭『羆の実像 羆研究50年の成果を集大成』北海道出版企画センター、2019年。ISBN 978-4832819078。
- 中山茂大『神々の復讐』講談社、2022年。