木村松治郎
木村 松治郎(きむら まつぢろう、1894年〈明治27年〉9月11日[1] - 1950年〈昭和25年〉1月24日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
木村 松治郎 | |
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生誕 |
1894年9月11日 日本・奈良県 |
死没 | 1950年1月24日(55歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1915年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
経歴
編集奈良県出身[1][2]。1915年(大正4年)5月25日、陸軍士官学校(27期)を卒業[1][3]。同年12月25日、歩兵少尉に任官し歩兵第31連隊付となる[3][4]。1926年(大正15年)12月7日、陸軍大学校(38期)を優等で卒業[1][2][5]。
アメリカ駐在などを経て、1935年(昭和10年)3月、参謀本部員兼陸大教官となり、1937年(昭和12年)11月、歩兵大佐に昇進[2]。1938年(昭和13年)7月、歩兵第57連隊長に就任[2]。1939年(昭和14年)9月、ノモンハン事件後に第23師団参謀長となり師団再建に尽力[1][2]。1940年(昭和15年)8月、留守第7師団司令部付に発令[2]。同年12月2日、陸軍少将に進級し北部軍参謀長に着任し太平洋戦争を迎えた[1][2]。
1943年(昭和18年)2月11日、北方軍参謀長に転じ、同年8月、同軍情報部長を兼務[1][2]。1944年(昭和19年)3月1日、陸軍中将に進み、同月10日、第5方面軍参謀長に就任[1][2]。同年12月26日、第4師団長に親補されスマトラ島に赴任[1][2]。ビルマ方面の戦局悪化に伴い、第15軍隷下となり、タイのランパンに進出したが、同地で終戦を迎えた[1]。