木村尚達 (司法官)
日本の裁判官、検察官、政治家
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木村 尚達(きむら しょうたつ、明治12年(1879年)5月27日 - 昭和22年(1947年)11月1日)は、日本の裁判官、検察官、政治家。検事総長、司法大臣、貴族院議員。
木村尚達 | |
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生年月日 | 1879年5月27日 |
出生地 | 熊本県 |
没年月日 | 1947年11月1日(68歳没) |
死没地 | 日本 |
出身校 | 京都帝国大学法科大学 |
所属政党 | 研究会 |
在任期間 | 1939年2月15日 - 1940年1月16日 |
第40代 司法大臣 | |
内閣 | 米内内閣 |
在任期間 | 1940年1月16日 - 1940年7月22日 |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1940年7月16日 - 1946年5月16日 |
経歴
編集熊本県出身。東秀則の二男として生まれ、木村成苗の養子となる。中学済々黌、第五高等学校を経て、1906年7月、京都帝国大学法科大学を卒業。司法官試補となり奈良地方裁判所詰となる。
1908年4月、検事に任官し東京地方裁判所予備検事に着任。以後、岡崎区裁判所検事、千葉地方裁判所検事を歴任し、1911年4月に退職。翌月、ドイツに留学し、チュービンゲン大学、ミュンヘン大学で学んだ。
1914年に帰国し、同年4月、東京地裁判事に復帰した。以後、東京地裁部長、司法書記官兼司法省参事官、大臣官房調査課長、兼検事・大審院検事を歴任。1931年9月、司法省刑事局長に就任し、大審院検事、大審院部長判事などを務めた。1938年7月、東京控訴院(現東京高等裁判所)長、さらに、1939年2月、検事総長に就任した。
1940年1月、米内内閣の司法大臣に就任。同年7月、同内閣が総辞職をすると、同月16日、貴族院勅選議員に任じられ[1]、研究会に属して活動し、1946年5月16日に辞任した[2]。戦後、1946年に公職追放となった。
親族
編集脚注
編集参考文献
編集公職 | ||
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先代 宮城長五郎 |
司法大臣 第40代:1940 |
次代 風見章 |