木下利房

安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。備中足守藩2代藩主。従五位下宮内少輔。木下家定の次男

木下 利房(きのした としふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて武将大名備中国足守藩の第2代藩主[3]。官途は従五位宮内少輔。初名は勝義。は惟俊とする史料もある[2]

 
木下 利房
木下利房像(圓徳院蔵)
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正元年(1573年
死没 寛永14年6月21日1637年8月11日
改名 勝義(初名)[1]、利房
別名 勝義(勝藤)、惟俊[2]
通称:宮内少輔、木下宮内
戒名 円徳院殿半湖休鷗居士
墓所 高台寺円徳院京都市東山区
官位 従五位下宮内少輔
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉→(秀頼)→徳川家康秀忠家光
備中足守藩
氏族 木下氏(杉原氏)
父母 父:木下家定、母:雲照院杉原家次娘)
兄弟 勝俊利房延俊俊定小早川秀秋俊忠秀規周南紹叔
正室:織田信包
継室:進藤正次
利当利次
養子:利古
特記
事項
次男の利次は高台院の養子になって、幕府に認められた第二豊臣氏の後継者である。
テンプレートを表示

略歴

編集

天正元年(1573年)に杉原定利の孫、木下家定の次男[1]として若狭国で生まれた[4]。利房は豊臣秀吉の正室高台院北政所、おね)の甥でもある。縁族であり、木下姓を称するが、秀吉と血のつながりはない。

歌人木下長嘯子として知られる勝俊は異母兄[5]であり、雲照院杉原家次の娘)を生みの母とする同母弟は延俊小早川秀秋(秀俊)は確実であるが、他の弟は異母弟とする系図がある[6]

豊臣秀吉に仕えて、文禄・慶長の役では肥前名護屋城に駐屯[1]文禄3年(1594年)、勝俊に小浜城6万2千石が与えられた時に、利房にも隣接する高浜城2万石が与えられ[1]、従五位下宮内少輔に叙され[4]慶長元年(1596年)にはそれが3万石に加増された[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属した。8月1日、宇喜多秀家毛利輝元らの命令で、利房と勝俊の若狭勢は越前国北ノ庄(福井城)援軍を命じられた[7]。戦後、大聖寺城攻略戦などに援兵を出した責任を問われて、死刑に処せられるべきところを高台院の所縁により改易で許され、所領を没収された[4]。勝俊は東軍に属したが、伏見城の戦い鳥居元忠より退去せよといわれ退去したことから、戦後敵前逃亡とみなされ除封されていた。兄弟は父家定を頼って備中足守に落ち延びた。

ところが慶長13年(1608年)8月26日に父が死去すると、遺領2万5,000石を巡って兄弟で争い、翌年9月に分割相続するように幕府から指示されたが、高台院がこれを守らずに勝俊のみに与えたため、徳川家康は不快におもって裁定を下さして、遺領はすべて没収とされた[4]

大坂の役では、徳川方に組して冬の陣に参加した。『譜牒余録』によると夏の陣では、自ら豊臣秀頼との交渉に出向こうとした高台院を制止するため、江戸幕府によって護衛の名目で監視役に付けられた、ということが記されている。

こうした実績から、元和元年(1615年)、備中の賀陽郡上房郡の2郡で2万5,000石の知行を拝領し[4]、木下氏は足守藩主として復活した。なお、利房の法号の圓徳院は、そのまま高台寺の塔頭の名前に使われている。

寛永3年、徳川秀忠の上洛に供奉して、9月3日の参代にも扈従した[4]

寛永14年(1637年)6月21日に没す。享年65。法名は半湖休鷗。

系譜

編集

脚注

編集
  1. ^ a b c d e 高柳 & 松平 1981, p. 84.
  2. ^ a b 若狭関連の資料による。『福井県史』 (※このサイトでは兄・勝俊の伏見城従軍が間違って『西軍』と記載されていることに注意)
  3. ^ 勝俊を、同時ではなく、先んじる足守藩主と数えると第3代目にあたる。
  4. ^ a b c d e f 堀田 1923, p. 171.
  5. ^ 寛政重修諸家譜』『尾張群書系図部集』『木下家譜』など。
  6. ^ 『木下家譜』では、利房、延俊、俊定、秀秋、出雲守、僧は雲照院を生母とし、勝俊と秀規を異母とする。『寛政重修諸家譜』等諸系図では、利房、延俊、秀秋だけを雲照院が産んだ同母兄弟とし、残り全てを異母兄弟とする。
  7. ^ 史料綜覧11編913冊241頁.

参考文献

編集

関連項目

編集