曽根幹子
曽根 幹子(そね みきこ、1952年10月24日[2] - )は、日本の陸上競技選手(走高跳)、スポーツ科学・スポーツ史研究者[3][4][5]。走高跳の元日本記録保持者であり、1976年モントリオールオリンピックに参加した。広島市立大学名誉教授[5]。姓は「曾根」とも表記される[6]。
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選手情報 | ||||
フルネーム | 曽根 幹子 | |||
国籍 | 日本 | |||
種目 | 走高跳 | |||
所属 | 大昭和製紙 | |||
大学 | 東洋大学 | |||
生年月日 | 1952年10月24日(72歳) | |||
生誕地 | 広島県 | |||
身長 | 1m74cm[1] | |||
自己ベスト | ||||
走高跳 | 1m85(1975年)[2] | |||
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経歴
編集現在の三次市甲奴町出身[7][注釈 1]。甲奴中学校を経て広島県立上下高等学校に進み、高校2年生の時に日本選手権を制する[1]。翌年の日本選手権では鈴木久美江(東洋大学)と死闘のすえ1m69cm(高校記録)を出した[1]。東洋大学に進学後[1]、茨城国体で1m83cm(日本記録)、世界室内陸上競技会で1m80cm(室内新記録)の記録を残す[1]。当時のスポーツ界では異色の才女と呼ばれたといい、東洋大学文学部国文学科に提出した卒業論文は「奥の細道-芭蕉と木曾義仲の接点-」であった[1]。
陸上競技の名門チームを擁する大昭和製紙に就職[1]。1975年の日本選抜陸上競技大会で自らの日本記録を更新(1m85cm)[1]。1976年モントリオールオリンピックで女子走高跳に出場した[8]。予選敗退[1]。
競技引退後[7]、広島市立大学国際学部で教鞭をとり、地域とスポーツのかかわりについて研究[4][7][9]。広島市の被爆70年史への執筆に際し[4][7]、原爆症で亡くなったオリンピアン(高田静雄)の調査を行ったことを契機として[5]、戦争で命を落とした「戦没オリンピアン」の本格的な調査を進める[4][7][5][6]。大島鎌吉が制作していた名簿を土台として発展させたもので[10]、曽根は「戦没オリンピアン」について、過去にドイツでおこなわれた名簿作りでの定義を参考に[5]「戦争や暴力によって亡くなったオリンピック選手と役員」と定義し[7]、38人をリストアップしている(2021年現在)[11][5]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f g h i “7.華麗なるジャンパー モントリオールの空を舞う”. 東洋大学とオリンピック. 東洋大学. 2021年8月15日閲覧。
- ^ a b c “広島陸上人”. 広島陸上競技協会. 2021年8月15日閲覧。
- ^ “曾根 幹子”. researchmap. 科学技術研究機構. 2021年8月15日閲覧。
- ^ a b c d “戦没オリンピアン調査 広島市立大の曽根名誉教授、東京五輪控え「関心を」”. 中国新聞. (2018年8月24日) 2021年8月15日閲覧。
- ^ a b c d e f “戦没オリンピアン、全国に38人 平和の祭典から戦場へ 兵庫関係は3人確認”. 神戸新聞. (2021年8月13日) 2021年8月15日閲覧。
- ^ a b 曾根幹子「「戦没オリンピアン」をめぐる調査と課題 -広島県出身選手を事例に-」(PDF)『広島市公文書館紀要』第32号、広島市公文書館、2020年3月、1-13頁。
- ^ a b c d e f “戦没五輪選手 後世に伝えねば 甲奴出身の曽根さん 三次で講演 戦争が奪った次のキャリア”. 広島平和メディアセンター (中国新聞). (2021年7月5日) 2021年8月15日閲覧。
- ^ “Mikiko Sone Olympic Results”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月31日閲覧。
- ^ “曾根 幹子|広島市立大学 国際学部”. 広島市立大学. 4 January 2018閲覧。[リンク切れ]
- ^ “戦没オリンピアン調査 広島市立大の曽根名誉教授、東京五輪控え「関心を」”. 広島平和メディアセンター (中国新聞). (2018年8月24日) 2021年8月15日閲覧。
- ^ “<戦没オリンピアン>(前編)南方で散った命多く 38人の足跡 浮かび上がる横顔”. 東京新聞. (2019年12月9日) 2021年8月15日閲覧。