曲先衛(きょくせんえい)は、河西回廊明朝が設置した羈縻衛所の一つで、現在の中華人民共和国甘粛省青海省新疆ウイグル自治区の境界線上に位置していた。曲先衛はチャガタイ安定王家を戴く安定衛から派生した衛所であり、時代によって安定衛との統廃合が行われた。

明朝関西八衛(1436年)

概要

編集

曲先衛の設置された土地はサリク・ウイグル(現代のユグル族)と呼ばれる民族が住まう一帯であり、元代より続くチャガタイ系安定王家の勢力圏であった。洪武7年(1374年)、安定王ブヤン・テムルは明朝に使者を派遣して明朝の冊封を受け、曲先(苦先)方面の酋長もまた銅印を支給された[1]。洪武8年(1375年)、ブヤン・テムルは再び使者を明朝に派遣して明朝の官職を授けるよう請願し、これを受けて洪武帝は曲先衛を設置した[2]。しかし洪武10年(1377年)には安定衛のブヤン・テムルとその息子が曲先衛の者達に殺されるという事件が起き、その後も番将のドルジバルがこの一帯を転戦したためサリク・ウイグル地方は荒廃し、曲先衛は安定衛に編入されて住民は阿真地方に居住せざるを得なくなった。

永楽4年(1406年)、安定衛指揮のハサン(哈三)・サンジス(散即思)・サンジ(三即)らは明朝に使者を派遣し、近頃チベット方面からの侵攻によって安住ができないため、曲先衛を復活させて居住地を移動させてもらいたいと上奏した。そこで永楽帝は曲先衛を復活させてサンジ(三即)をその指導者とし、曲先衛の住民は薬王淮之地に移住するよう決定した[3]。この後、曲先衛千戸のタングート(唐兀)・テムル(帖木児)・サンジ(三即)らは明朝に来朝して下賜品を受けている[4][5][6]。また、永楽16年(1418年)には曲先衛指揮使のサンジ(三即)が指揮同知のタングート(唐兀)の息子の安替迷失を派遣している[7]

永楽帝が死去し洪熙帝が立った頃、チベット方面に派遣された明朝の使者が曲先・安定・赤斤蒙古衛の賊5千人に襲撃され、物品を奪われる事件が起きた[8]。そこで明朝は陝西行都司土官都指揮李英らを派遣し[9]、洪熙元年(1425年)に雅令闊の地で安定・曲先の賊軍に大勝した[10]。しかしこの戦いでは賊軍の頭目であった曲先衛指揮のサンジス(散即思)・安定衛指揮哈昝土禿らを捕縛することはできなかった[11]

宣徳2年(1427年)、明軍の追撃を逃れたサンジスら曲先衛の人々は明朝の攻撃を恐れて逃亡生活を送っていたが、西寧衛都指揮同知の陳通らが使者として訪れ招撫したため、サンジス率いる4万2千帳の民は再び明朝に帰順することを決めた[12]。サンジスは改めて謝罪の使者を明朝に派遣し、明朝はこれを受け容れてサンジスを都指揮同知に昇格させ、その他の部下も官位を昇格させた[13]。このため、宣徳3年(1428年)・宣徳4年(1429年)には曲先衛指揮同知のサンジス・指揮僉事のシラカン(失剌罕)・その子のアダル(阿脱力)らが定期的に明朝に使者を派遣した[14][15][16][17][18]

しかし宣徳5年(1430年)に入ると曲先衛指揮同知のサンジスは再び明朝の派遣した使臣を襲撃するようになり、宣徳帝は都督僉事史昭らに命じてサンジスを討伐させた[19]。史昭らが曲先衛まで辿り着くと、サンジスは逃れていたもののその部下のトクトア・ブカ(答答不花)が明軍を迎え撃ち、史昭らはこれを大いに撃ち破って340人余りを捕虜とした[20]。指揮官であったトクトア・ブカもまたこの時捕らえられ、これを含む捕虜達は北京まで連行された[21]。宣徳6年(1431年)、サンジスは弟の千戸の堅都を派遣して明朝に刃向かったことを謝罪し[22]、明朝はこの謝罪を受け容れて先の戦いで捕虜とした曲先衛の兵を返還した[23]

宣徳7年(1432年)、曲先衛都指揮同知のナナガン(那那罕)は百戸の阿答を明朝に派遣し[24][25]、この際に曲先衛の者達の官職はそれぞれ1階級昇進となった[26]。また、は曲先衛指揮同知のサンジスは許されて以前の生活に戻ったのに対し、自身の家族は未だ安定衛に捕虜とされたままであると訴え、これを受けて明朝は安定衛には無実であって捕虜を解放するよう通達した[27]。同年、曲先衛指揮同知のサンジスは亡くなり、明朝の許可を得てその息子のドゥリ(都立)が後を継いだ[28]

宣徳8年(1433年)・宣徳9年(1434年)、明朝は陝西粛州衛指揮韋文を曲先衛に派遣し[29]、かねてより対立関係にあった曲先衛と罕東衛との和解に努めた[30]。宣徳10年(1435年)にはドゥリの申請によって曲先衛指揮使那那罕は都指揮僉事とされ、その他の者達も昇級された[31]

正統帝の即位後も曲先衛からの朝貢は定期的に続けられ[32][33]、正統7年(1442年)にはドゥリ(都立)が曲先衛都指揮使に、都指揮同知のダジガン(答即干)の子のエルゲ(額児格)が父の官職を継いで都指揮同知に、指揮僉事のサンガ(桑哥)の子の瓦思答児が父の官職を継いで指揮僉事とされた[34][35][36]。正統8年(1443年)にはナナガン(那那罕)が都指揮同知に昇格となったのをはじめ、曲先衛の者達の官職がそれぞれ昇級となった[37]

正統年間末期には明朝とエセン・タイシ率いるドルベン・オイラトとの抗争が激しくなり、正統12年(1447年)には曲先を含む河西地方から軍馬が徴集された[38]。これ以後、曲先衛は明朝の後ろ盾を失ってオイラトやモグーリスタン・ハン国の侵攻に晒されるようになり、記録も少なくなる。正徳年間、ダヤン・ハーンの討伐を受けて逃れてきたオルドス部のマンドライ・アカラクとヨンシエブのイブラヒム・タイシの攻撃を受け、曲先衛は亡びた。

曲先地方統治者

編集

バイダカン安定王家

編集
  1. バイダカン(Baidaqan、拝答寒/Bāīdaghānبایدغان)
  2. 安定王トガンToγan、安定王脱歓/Ṭūghānطوغان)
  3. 安定王ドルジバル(Dorǰibar、安定王朶児只班)
  4. 安定王ブヤン・テムル(Buyan Temür、安定王卜煙帖木児)

曲先衛統治者

編集
  1. ハサン(哈三)
  2. 曲先衛指揮使サンジ(三即)
  3. 曲先衛指揮同知サンジス(散即思)
  4. 曲先衛指揮僉事シラカン(失剌罕)

脚注

編集
  1. ^ 『明太祖実録』洪武七年六月壬戌「西域撒里畏兀児安定王卜煙帖木児遣其府尉麻答児・千戸剌爾嘉、来朝貢鎧甲刀剣等物。撒里畏兀児者韃靼別部也。其地広袤千里去甘粛一千五百里、東抵罕東、西距天可里、北邇瓜沙州、南界吐蕃、居無城郭、以氊帳為廬舎、産多駝馬牛羊。至是、来朝貢、詔遣使賜卜煙帖木児織錦・文綺・四匹麻答児等羅衣二。仍命召其酋長立為四部、給銅印曰阿端、曰阿真、曰苦先、曰帖里」
  2. ^ 『明太祖実録』洪武八年正月丙戌「置安定・阿端二衛指揮使司、従撒里畏兀児卜煙帖木児之請也。以沙剌為指揮同知、亦班蔵卜・卜理不花・護出完者帖木児為指揮僉事」
  3. ^ 『明太宗実録』永楽四年三月丁未「復置曲先衛。時安定衛指揮哈三・散即思・三即等奏、安定・曲先二衛倶洪武中所置、後為朶児只巴所攻、因併曲先入安定、居阿真之地。比又為西番把禿侵擾、不獲寧居。乞復設曲先衛、且請徙治所。従之以三即掌曲先衛事、給以印章、徙治薬王淮之地、安定衛亦徙於昔児丁之地」
  4. ^ 『明太宗実録』永楽四年十一月壬申「安定衛指揮同知撒力加蔵卜・曲先衛千戸唐兀等来朝貢馬。賜鈔幣襲衣有差」
  5. ^ 『明太宗実録』永楽六年八月甲辰「曲先衛鎮撫魯帖木児等来朝、賜鈔幣金織文綺衣」
  6. ^ 『明太宗実録』永楽七年閏四月甲寅「曲先衛指揮使三即等遣人貢馬、火展的回回哈麻満剌来朝貢馬、皆賜鈔幣」
  7. ^ 『明太宗実録』永楽十六年三月丙子「曲先衛指揮使三即遣已故指揮同知唐兀之子安替迷失等貢方物、且請襲職。従之」
  8. ^ 『明仁宗実録』永楽二十二年九月庚子「甘粛総兵官都督費瓛奏、安定・曲先・赤斤密落処有賊五千餘人於必立出江黄羊川殺傷朝使内官喬来喜等、刼奪綵幣馬騾等物。遂遣勅一道令瓛等差的当頭目齎諭赤斤蒙古衛三道令都指揮李英・同指揮康寿、齎諭罕東・曲先・安定三衛著落挨査前項刼賊果是何簇分部落之人或禽拿解来或明白指実奏来、庶罪有所帰。其諭蒙古等衛勅曰、比朝廷差内官喬来喜等同烏思蔵等処貢使齎勅及綵幣等物、往烏思蔵尼八剌等処公幹至必立出江黄羊川、遇安定・曲先・赤斤密落等処賊徒五千餘人截路殺傷使臣、刼奪綵幣馬騾牛等物、罪不可容。即欲調軍勦捕恐傷及良善爾等須挨査前項賊徒是何簇分部落之人或禽拿解来或明白指実具奏、庶罪有所帰」
  9. ^ 『明宣宗実録』洪熙元年八月戊辰「陝西行都司土官都指揮李英討安定・曲先寇敗之、以揵聞以捷聞。永楽年末、朝廷遣中官喬来喜・鄧成等使西域、道経安定・曲先之地、番寇五十餘人邀刼之掠所齎賜幣掠。来喜成皆被害」
  10. ^ 『明宣宗実録』洪熙元年八月戊辰「仁宗皇帝臨御命英与必里衛土官指揮康寿等討之英等、率西寧諸衛及隆奔国師賈失児監蔵散丹星吉等十二番簇之兵、至罕東問故罕東衛指揮綽里加言、実安定衛指揮哈三孫散哥及曲先衛指揮散即思・卜答忽答所為。英等遂進兵討賊、賊驚走英追撃踰崑崙山西行数百里、至雅令闊之地、与安定寇党鎖南等戦敗之斬首四百八十餘級・生擒七百餘之七百餘人・獲駝馬牛羊十四万、有奇。曲先之賊聞風遠遁英欲窮追以道険遠遂還至是以聞且俟後命安定王桑児加失夾等躬詣闕請罪」
  11. ^ 『明宣宗実録』洪熙元年八月壬申「鎮守西寧都督史昭奏、昨陝西土官都指揮李英征西番還安定王桑児加失夾、来朝為臣言、刼殺使臣首悪。乃曲先衛指揮散即思・安定衛指揮哈昝土禿皆未就擒。又奏、罕東衛土官指揮卻里加等諸簇従英征討還者、今皆移近西寧以居。臣意其畏散即思等攻剽、故遠徙以避宜令復居罕東」
  12. ^ 『明宣宗実録』宣徳二年十一月辛丑「西寧衛都指揮同知陳通等招撫曲先衛指揮散即思等四万二千餘帳皆復業、以其指揮僉事失剌罕等入朝、貢駞馬謝恩。初散即思等与烏思巴相讎殺、適遇朝廷遣使入烏思蔵散即思等乗乱肆刼奪。既而懼罪皆逃徙、逐遣通等往撫安之至是還。上謂行在兵部尚書張本等曰、人誰無過過而能改、則復於無過何況遠夷宜待之如初」
  13. ^ 『明宣宗実録』宣徳二年十二月戊辰「陞曲先衛指揮使散即思為都指揮同知、其下指揮千百戸鎮撫頭目陞職、有差。年老及已故者命其子弟襲代、皆給誥命……以招撫曲先功陞安定衛指揮同知阿剌乞巴為都指揮僉事、其下千百戸鎮撫頭目陞職有差、皆給誥命」
  14. ^ 『明宣宗実録』宣徳三年正月庚子「賜陝西河州衛剌麻鎖南領占・曲先衛都指揮同知散即思所遣指揮僉事失剌罕等及烏思蔵剌麻遠丹等鈔・綵幣・表裏・紵絲・襲衣・靴襪、有差」
  15. ^ 『明宣宗実録』宣徳三年二月戊辰「曲先衛故指揮同知失剌罕子阿脱力遣人来朝貢馬。命阿脱力襲其父職、賜誥命冠帯」
  16. ^ 『明宣宗実録』宣徳三年二月乙亥「賜安定曲先等衛指揮同知果脱不花等官五十三人誥命」
  17. ^ 『明宣宗実録』宣徳三年十二月己丑「曲先等衛都指揮同知散即思・安定王亦攀丹・都指揮僉事桑哥等遣鎮撫失列門等、陝西西寧衛即爾加簇剌麻鎖南黒巴綽束卜児加遣頭目禄禄等、来朝貢馬」
  18. ^ 『明宣宗実録』宣徳四年正月乙丑「賜曲先等衛都指揮同知散即思・安定王亦攀丹・都指揮僉事桑哥等所遣鎮撫失列門等、陝西即爾加簇剌麻鎖南黒巴綽束卜児加遣頭目禄禄等、鈔・綵幣・表裏・絹布、有差・仍命失列門禄禄等齎勅及鈔幣賜散即思亦攀丹桑哥鎖南黒巴等」
  19. ^ 『明宣宗実録』宣徳五年六月甲申「朝使自西域還及西域貢使至具言、曲先衛都指揮散即思数率所部邀刼往来使臣梗塞道路。上命都督僉事史昭充副総兵、都督僉事趙安充左参将、都督僉事王彧為充右参将、同太監王安王瑾率兵征之。勅昭等曰、曲先之人朝廷待之素厚、今悖恩作過刼殺往来使臣。特命爾等率兵問罪。若能改過順服宜撫綏之如復不悛、爾等即進兵討之」
  20. ^ 『明宣宗実録』宣徳五年十二月癸巳「総兵官都督僉事史昭等・同太監王安等征曲先還。初昭等兵至曲先、散即思先遁、其党答答不花等率衆迎敵、昭等縦兵撃之、殺傷甚衆獲答答不花及男女三百四十餘人・馬駝牛羊三十二万、有奇。至是奏至、上賜勅奨労仍命昭等守西寧、命参将都督趙安送所俘獲詣京師」
  21. ^ 『明宣宗実録』宣徳六年正月丙戌「副総兵官都督僉事史昭等遣人献所獲曲先賊首答答不花等至京師行在兵部請正典刑命下錦衣衛獄」
  22. ^ 『明宣宗実録』宣徳六年四月甲寅「曲先等衛指揮同知散即思等遣第副千戸堅都等四人進馬贖罪」
  23. ^ 『明宣宗実録』宣徳六年四月丙辰「宥曲先衛都指揮散即思等罪命還居旧地。散即思自太宗皇帝時来朝授官職置軍衛以処之撫之甚厚。比朝使齎勅往諭西域及西域朝貢之使過其地、皆為所邀刼殺傷。上怒命都督僉事史昭等率安定・罕東之衆討之、散即思懼而逃。至是使其弟千戸堅都等進馬贖罪。上以其能悔過語尚書許廓等曰、遠夷小餽服則舎之不足与校得失遂宥之、且悉還所俘。賜堅都等鈔幣遣帰」
  24. ^ 『明宣宗実録』宣徳七年七月壬申「曲先衛都指揮同知那那罕遣百戸阿答等、肥河衛女直指揮同知卜剌罕等来朝貢駝馬」
  25. ^ 『明宣宗実録』宣徳七年八月辛卯「賜哈密使臣捨黒馬黒麻及哈列等処使臣馬速等一百七十九人等、肥河等衛指揮同知卜剌罕等、曲先等衛百戸阿答等、白金紗羅綾紬絹布及金織紵絲襲衣、有差」
  26. ^ 『明宣宗実録』宣徳七年八月壬辰「陞曲先衛指揮同知那那罕為指揮使、副千戸瓦思答児為指揮僉事、経歴瓦撒為正千戸、百戸阿答及頭目卜児只等為正三人為副千戸」
  27. ^ 『明宣宗実録』宣徳七年八月壬寅「曲先衛指揮那那罕等奏、往者安定之兵来討散即思。臣二女・四弟及指揮桑哥・経歴剌麻家属被虜者五百餘人。今散即思已宥罪、復業而臣等親属被俘掠不得帰。千戸米剌苦朮等亦驚潰今尚居西番江未回。上曰、朕嘗以用兵為戒、正恐濫及無辜。彼不自言、何由知之。勅諭安定王亦攀丹及安定衛都指揮僉事桑哥・阿剌乞巴・指揮使魯古答児等曰、去年調爾等討散即思、今已宥其罪俾復業。那那罕等本無罪之人、而其親属為爾等俘虜此于天理人道順邪勅至爾即遍索部下但有得其家口者悉給還之不許違命。仍遣那那罕及指揮僉事白帖木児等、齎勅往西番江招撫米剌苦朮等俾帰曲先」
  28. ^ 『明宣宗実録』宣徳七年八月庚戌「命赤斤蒙古衛故指揮僉事朶児只失加之子亦魯伯・沙州衛故指揮僉事兀魯思子忽禿不花・故指揮僉事鎖南子曲列該・曲先衛故都指揮同知散即思之子都立等、倶襲職各賜勅勉之」
  29. ^ 『明宣宗実録』宣徳八年十二月丙子「遣陝西粛州衛指揮韋文齎勅撫論曲先等衛、並賜土官都指揮都力等綵幣・表裏、有差」
  30. ^ 『明宣宗実録』宣徳九年二月乙卯「遣粛州衛指揮同知韋文齎勅往曲先等衛、賜指揮使那那罕等綵幣・表裏、有差。先是、曲先与罕東讎殺、民多離散、嘗遣文撫之。至是撫定復業各遣人貢馬謝恩故有是命」
  31. ^ 『明英宗実録』宣徳十年七月乙亥「陞曲先衛指揮使那那罕為都指揮僉事、卜答忽答・答即干・撒児者・拝干都哥等八十九人倶授指揮千百戸、有差。従都指揮同知都立等奏請也」
  32. ^ 『明英宗実録』正統二年十二月庚午「命亦力把里及阿端・曲先等地面使臣齎勅及金織・表裏・綵絹、賜其王母倒剌速魯擅・頭目撒剌馬沙米児咱・馬黒麻癿等」
  33. ^ 『明英宗実録』正統七年七月辛巳「曲先衛使臣打剌罕撒法児貢玉石、賜綵幣・表裏・紵絲・襲衣・鈔絹・靴韈」
  34. ^ 『明英宗実録』正統七年八月甲午「命曲先衛都指揮同知都立為都指揮使、故都指揮同知答即干子額児格襲其父職」
  35. ^ 『明英宗実録』正統七年八月丙午「命故曲先衛指揮同知答即干子額児格襲職」
  36. ^ 『明英宗実録』正統八年正月戊辰「命故亦迷河衛指揮使出羊哈子爾不出赤兀思・哈里衛指揮同知忽答木子阿剌孫阿資河衛指揮僉事抄哈子都児禿・曲先衛指揮僉事桑哥子瓦思答児、倶襲職……」
  37. ^ 『明英宗実録』正統八年二月壬寅「陞曲先等衛都指揮僉事那那罕為都指揮同知、指揮同知亦思蛮・朶里只白・帖木児哈児魯・帖木児撒児只伯克禿倶為指揮使、指揮僉事瓦思答児為指揮同知、故阿端衛指揮同知準者罕為指揮使、指揮僉事桑思答児革里麻古亦失拝剌麻朶児只倶為指揮同知、命指揮僉事卜答古子搠因拝子剌襲職」
  38. ^ 『明英宗実録』正統十二年四月丙午「巡按陝西監察御史馮靖奏、徴収西寧・罕東・安定・阿端・曲先五衛番民馬二千九百四十六匹、給茶一十二万五千四百三十斤」

参考文献

編集
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 明史』巻330列伝218