日野家光
鎌倉時代前期の公卿。日野資実の三男。従二位・権中納言。日野家15代。勅撰集『続拾遺和歌集』『新後撰和歌集』に2首入集。
日野 家光(ひの いえみつ)は、鎌倉時代前期の公卿。藤原北家真夏流日野家、権中納言・日野資実の三男。官位は従二位・権中納言。日野家15代当主。
時代 | 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 正治元年(1199年) |
死没 | 嘉禎2年12月14日(1237年1月12日) |
改名 | 家光→光寂(法名) |
別名 | 藤原家光 |
官位 | 従二位、権中納言 |
主君 | 土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇 |
氏族 | 藤原北家真夏流日野家 |
父母 | 父:日野資実、母:平棟子(平棟範の娘) |
兄弟 | 家宣、家長、家光、光国、光恵、光厳、兼性、忠承 |
妻 | 藤原忠綱の娘 |
子 |
資定、資宣、資兼 養子:光国、宗恵 |
経歴
編集元久2年(1205年)文章生になり、承元3年(1209年)に秀才となる。
承元4年(1210年)越中大掾に初任。承元5年(1211年)には右衛門尉に任ぜられる。六位蔵人を経て建暦3年(1213年)従五位下・宮内権大輔に叙任され、昇殿を許された。建保3年(1215年)に従五位上に叙され、建保5年(1217年)に大隅守を兼任。承久3年(1221年)右少弁に任ぜられ、貞応元年12月(1223年1月)に従四位下・権右中弁に叙任される。嘉禄元年(1225年)蔵人頭に補され、同年中に参議に任ぜられ公卿に列し、左大弁を兼ねた。
嘉禄2年(1226年)従三位・周防権守となる。寛喜3年(1231年)に正三位・権中納言に叙任されるが、病に依り文暦2年(1235年)に辞任した。嘉禎2年(1236年)に従二位に叙されるが、出家して嘉禎2年12月14日(1237年1月12日)薨去。享年38。
官歴
編集※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 元久2年(1205年)4月5日:文章生に補す。
- 承元2年(1208年)2月:院非蔵人。
- 承元3年(1209年)正月:秀才。
- 承元4年(1210年)正月:越中大掾に任ず。
- 承元5年(1211年)3月4日:献策(成信問)。4月1日:右衛門尉に任ず。
- 建暦2年(1212年)正月:六位蔵人に補す。4月9日:使。
- 建暦3年(1213年)正月16日:従五位下に叙爵。昇殿を聴す。4月7日:宮内権大輔に任ず。
- 建保3年(1215年)正月6日:従五位上に叙す。
- 建保5年(1217年)正月28日:大隅守に兼ぬ(巡蔵人、輔如元)。
- 建保6年12月16日(1219年1月4日):東宮学士に補す。
- 建保7年(1219年)正月22日:守を止む。閏2月25日:五位蔵人に補す。
- 承久2年(1220年)正月26日:正五位下に叙す。
- 承久3年(1221年)4月20日:学士を止む(踐祚)。更蔵人。8月:新帝昇殿。8月2日:服解(母)閏10月19日:右少弁に任ず。
- 貞応元年(1222年)4月13日:左少弁に転ず。12月21日(1223年1月25日):権右中弁に転ず。12月26日(1月30日):従四位下に叙す(宣陽門)。
- 貞応3年(1224年)10月16日:右中弁に転ず。同月:右宮城使を兼ぬ。10月29日:従四位上に叙す。
- 嘉禄元年(1225年)4月27日:従四位上に叙す[1]。7月6日:蔵人頭に補す。左中弁に転ず。12月21日(1226年1月20日):参議に任ず。左大弁を兼ぬ。
- 嘉禄2年(1226年)正月23日:丹波権守を兼ぬ。正月24日:造東大寺長官を兼ぬ。4月19日:正四位下に叙す(臨時)。11月4日:従三位に叙す(臨時)。
- 寛喜2年(1230年)正月24日:周防権守を兼ぬ。
- 寛喜3年(1231年)正月6日:正三位に叙す(弁労)。4月26日:権中納言に任ず。
- 文暦2年(1235年)4月16日:病に依りて辞す。
- 嘉禎2年(1236年)2月30日:従二位に叙す。
系譜
編集脚注
編集- ^ 記載が二度ある。