日置谷村
日本の鳥取県気高郡にあった村
日置谷村(ひおきだにそん)は、鳥取県気高郡にあった自治体である。1896年(明治29年)3月31日までは気多郡に属した。
ひおきだにそん 日置谷村 | |
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廃止日 | 1953年7月1日 |
廃止理由 |
新設合併 青谷町(初代)、勝部村、中郷村、日置谷村 → 青谷町 |
現在の自治体 | 鳥取市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方(山陰地方) |
都道府県 | 鳥取県 |
郡 | 気高郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 7.33 km2 |
総人口 |
1,683人 ([1]、1952年) |
隣接自治体 | 青谷町(初代)、中郷村、日置村、浜村町、逢坂村 |
日置谷村役場 | |
所在地 | 鳥取県気高郡日置谷村大字奥崎字坂ノ谷297番地ノ2 |
座標 | 北緯35度29分57秒 東経134度00分32秒 / 北緯35.49917度 東経134.00876度座標: 北緯35度29分57秒 東経134度00分32秒 / 北緯35.49917度 東経134.00876度 |
特記事項 | 座標は現在の日置谷地区公民館位置 |
ウィキプロジェクト |
概要
編集現在の鳥取市青谷町奥崎・青谷町蔵内・青谷町善田・青谷町大坪・青谷町養郷に相当する。日置川中・下流域に位置した。
藩政時代には鳥取藩領の気多郡日置中郷(ひおきなかのごう)に属する山崎村・養郷村・奥谷村・大坪村・蔵内村、および日置下郷(ひおきしものごう)に属する大平田村・小平田村があった[1]。
沿革
編集- 弘化4年(1847年) - 大平田村が善積村と改称。明治3年(1870年)政府に届出[1]。
- 1876年(明治9年)8月21日 - 島根県の管轄となる。
- 1877年(明治10年)5月22日 - 奥谷村と山崎村が合併して奥崎村となる。善積村と小平田村が合併して善田村となる[1]。
- 1881年(明治14年)9月12日 - 鳥取県再置。
- 1883年(明治16年)3月 - 早牛村(後の日置村大字早牛)に置かれた気多郡第五連合戸長役場の管轄区域となる。なお善田村のみ同第六連合戸長役場(青谷村)の管轄区域となる[1]。
- 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制の施行により、蔵内村・善田村・大坪村・奥崎村・養郷村が合併して村制施行し、気多郡日置谷村が発足。旧村名を継承した5大字を編成し、役場を奥崎村に設置[1][2]。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行により、高草郡・気多郡の区域をもって気高郡が発足し、気高郡日置谷村となる。
- 1915年(大正4年)1月1日 - 「日置谷村大字◯◯村」から大字の「村」を削除し、「日置谷村大字◯◯」と改称[3]。
- 1923年(大正12年)3月10日 - 役場位置を大字奥崎295番地に変更[4]。
- 1933年(昭和8年)10月15日 - 役場位置を大字奥崎字坂ノ谷297番地ノ2に変更[5]。
- 1953年(昭和28年)7月1日 - 青谷町(初代)・勝部村・中郷村と合併し、改めて青谷町(2代)が発足。同日日置谷村廃止[6]。
行政
編集歴代村長
編集代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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初 | 尾崎芳三郎 | 1889年(明治22年)11月 | 1897年(明治30年)11月 | |
2 | 山根雅智 | 1897年(明治30年)12月 | 1898年(明治31年)10月 | |
3 | 山根金蔵 | 1898年(明治31年)10月 | 1906年(明治39年)11月 | |
4 | 宮本国蔵 | 1906年(明治39年)12月 | 1910年(明治43年)12月 | |
5 | 尾崎勝平 | 1911年(明治44年)1月 | 1912年(大正元年)9月 | |
6 | 山根定栄 | 1912年(大正元年)10月 | 1916年(大正5年)6月 | |
7 | 谷口米蔵 | 1916年(大正5年)8月 | 1917年(大正6年)3月 | |
8 | 尾崎長保 | 1917年(大正6年)7月 | 1921年(大正10年)7月 | |
9 | 中田玉平 | 1921年(大正10年)9月 | 1925年(大正14年)9月 | |
10 | 谷口節蔵 | 1925年(大正14年)10月 | 1929年(昭和4年)10月 | |
11 | 山根定栄 | 1929年(昭和4年)10月 | 1933年(昭和8年)10月 | |
12 | 木村民蔵 | 1933年(昭和8年)10月 | 1941年(昭和16年)10月 | |
13 | 中田玉平 | 1941年(昭和16年)10月 | 1946年(昭和21年)11月 | 合併後、青谷町長に就任 |
14 | 前家寛二 | 1947年(昭和22年)4月 | 1951年(昭和26年)4月 | |
15 | 山本寿延 | 1951年(昭和26年)4月 | 1953年(昭和28年)6月30日 | |
参考文献 - [1] |
教育
編集- 日置谷村立日置谷小学校(後の鳥取市立日置谷小学校、2007年閉校)
- 中郷村外三か村学校組合立山西中学校(1947年4月 - 1948年3月):中郷村大字亀尻257番地に中郷村・勝部村・日置村・日置谷村の組合立として創設。しかし4ヶ村の組合立が地域的に困難であることから2ブロックに分かれることになり、1年で閉校した[1]。
- 日置村日置谷村学校組合立山西第二中学校(1948年4月以降):奥崎370番地1に所在。合併後に青谷町日置村学校組合立、さらに日置村合併後に青谷町立となる。1958年(昭和33年)9月30日統合により新・青谷中学校となり閉校、同第二校舎となる[1]。
交通
編集- 最寄りの駅:青谷駅
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i 青谷町誌(青谷町誌編さん委員会、1984年)
- ^ 鳥取県改正市町村名及役場区域 明治22年10月改正(横山敬次郎、1889年)
- ^ 「大字名改称」『官報』1914年12月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「村役場位置変更」『官報』1923年3月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「村役場位置変更」『官報』1933年11月27日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「鳥取県告示第280号・市町村の廃置分合」『鳥取県公報 第2424号』1953年6月23日(鳥取県立公文書館)