斎藤市郎左衛門

日本の安土桃山時代~江戸時代初期の武将。織田禅正忠家(織田秀信)・前橋松平家の家臣。美濃加治田城主斎藤利治の子で、備前岡山藩士斎藤義興実弟

斎藤 市郎左衛門(生没年不詳)は、美濃国加治田(現在の岐阜県加茂郡富加町加治田)出身の武将。通称、市右衛門、兵左衛門。斎宮と号す。祖父は斎藤道三、父、斎藤利治、母、佐藤忠能娘・正室院、兄斎藤義興[1]

生涯

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加治田城主である父の利治が本能寺の変で主君信忠を追って討死し、利治の兄利堯加治田・兼山合戦のしばらく後に病死して、加治田は森長可の領地となり、城も廃城となったため、加治田城出丸である加治田城衣丸(絹丸村)捨堀に利治歴代家臣団(加治田衆)である家老長沼三徳古参西村治郎兵衛によって兄義興と共に養われ、成人まで成長した。(母の正室院も保護された)

その後、治郎が亡くなったのち三徳によって出仕を薦め、岐阜城織田秀信に仕える[2]

慶長5年8月23日、関ヶ原の戦いの前哨戦の岐阜城の戦い七曲の戦い)において福島正則池田輝政部隊と戦う。兄義興、後見役である三徳と共に戦うが、三徳は盾になり戦死する。

義興は負傷し、関(現関市)の梅龍寺で養生後、岐阜城の戦いで直に戦った池田家の任官勧めにより池田輝政に仕えた。

市郎左衛門は敵勢を突破し北山へ逃れ、後に松平直基に仕えた[3]

人物

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脚注

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注釈

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  1. ^ 「斎藤利堯の甥にあたる斎藤元忠と子の斎藤徳元であるが、名に忠と徳の元がある。忠は美濃佐藤氏佐藤忠能の字であるし、徳は長沼三徳の字が関わっていると考えられ、斎藤徳元も斎藤利治の血が繋がっていると推察できる。斎藤徳元が斎藤市郎左衛門の同一人物の可能性がある。」

出典

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  1. ^ 「佐藤氏系譜」『富加町史』 下巻 通史編、岐阜県加茂郡富加町、1980年、209頁。 
  2. ^ 「家老長沼三徳」『富加町史』 下巻 通史編、富加町、1980年、244 - 245頁。 
  3. ^ 「軍記物 南北山城軍記」『富加町史』 下巻 通史編、富加町、1980年、739頁。 
  4. ^ 「家老新五の最期」『富加町史』 上巻、富加町、1980年、233頁。 

参考文献

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  • 『富加町史』
  • 『南北山城軍記』

関連項目

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