文秀女王
文秀女王(ぶんしゅうじょおう、天保15年1月29日(1844年3月17日) - 大正15年(1926年)2月15日)は、江戸時代末期から明治時代・大正時代の皇族で、僧侶、書家。
文秀女王 | |
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伏見宮家 | |
称号 | 福喜宮(ふきのみや) |
身位 | 女王 |
敬称 |
殿下 Her Imperial Highness |
出生 |
天保15年1月29日 (新暦:1844年3月17日) 平安京 |
死去 |
1926年2月15日(81歳没) |
埋葬 | 大日本帝国・奈良県添上郡帯解村(現:奈良市)、圓照寺 |
父親 | 伏見宮邦家親王 |
母親 | 木村世牟子 |
大知文秀 | |
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天保15年1月29日 - 大正15年2月15日 | |
法名 | 文秀 |
法号 | 大知 |
院号 | 最勝心院 |
宗旨 | 臨済宗 |
宗派 | 妙心寺派 |
寺院 | 圓照寺 |
皇族として尼門跡となった最後の人物。
生涯
編集天保15年1月29日(グレゴリオ暦:1844年3月17日)、伏見宮邦家親王と女房木村世牟子の間に生まれる。邦家親王の第7女子。
嘉永2年[注釈 1]6月22日(グレゴリオ暦:1849年8月10日)、圓照寺の門跡を相続[1]。嘉永4年9月20日(1851年10月14日)、満7歳の時に落飾[2]。
万延元年12月3日(1861年1月13日)、孝明天皇の養女となる[2]。明治6年(1873年)8月13日に伏見宮に復帰した[2][1]。
大正14年(1925年)頃から持病のリウマチが悪化し、大正15年(1926年)2月10日に感冒を発症した後、同年2月15日午前10時に薨去した[3][4]。2月23日に葬儀が圓照寺で執り行われ、喪主は博英王[注釈 2]が務めた[5]。
参考文献
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 『金刀比羅宮ニ於ケル御筆「文秀女王御筆御懐紙」』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『文秀女王』 - コトバンク
- 滋賀県立琵琶湖文化館「文秀女王墨蹟」