放蕩息子のたとえ話(ほうとうむすこのたとえばなし、英語: Parable of the Prodigal Son)は、新約聖書ルカによる福音書』15章11〜32節でイエス・キリストが語った、神のあわれみに関するたとえ話である。

レンブラント・ファン・レイン放蕩息子の帰還』1666-68年 エルミタージュ美術館

このたとえ話は、福音書に登場するたとえ話のうちで、最もよく知られているもののひとつである。

本文

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また言われた[1]、「ある人に、ふたりのむすこがあった。

ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』[2]。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった[3]

それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。

何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。

そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた[4]

彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。

そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。

立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。

もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。

そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した[5]

むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。

しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。

また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。

このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。

ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、 ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。

僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。

兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、

兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。

それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。

すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。

しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。 — 福音書記者ルカおよびイエス・キリスト、新約聖書『ルカによる福音書』15章11〜32節 口語訳

解説

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この物語の主題は、神に逆らった罪人を迎え入れる神のあわれみ深さである。登場する「父親」は神またはキリストを、「弟」(放蕩息子)は神に背を向けた罪びとを、「兄」は律法に忠実な人を指しているといわれる。

放蕩息子であった弟が故郷に帰還し、父親に祝宴を開いて受け入れられるという物語を通して、神の深い憐れみの奥義が表現されている[6]

一方、弟のために開かれた盛大な祝宴を喜ぶことができず、父親に不満をぶつける兄の姿は、律法に忠実な人が陥りやすいファリサイ派の精神、傲慢さを表していると読むこともできる。この読み方によれば、兄をたしなめる父親のことばはファリサイ派のパン種(偽善・慢心)[7]に注意しなさいという、この兄のようないわゆる「善人」への警告を含んでいるとも読み取れる[8]マタイによる福音書20章1-16節)でイエスは「ぶどう園で働く労働者のたとえ」を語っている。一番はじめに呼ばれた労働者は夜明けから働いた。そしてある人は午前9時から、ある人は12時から、ある人は午後3時から、またある人は午後5時からという具合にぶどう園で働いてもらい、最後に主人は最後に呼ばれた者から順番に同じ金額の報酬を与える。このことに対し最初の労働者が主人に向かって不平を言った。放蕩息子の兄の不平はこの最初の労働者の不平と同じものと言えるのであろう。[9]

また同時にこのたとえ話は、神の楽園から追い出されていった創世記アダムエバ[10]の子孫である人類に対して、神の楽園への帰還を呼びかけるという、壮大な救済の物語を象徴的に重ね合わせている[11]

文化的影響

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ジェラール・ファン・ホントホルストの「放蕩息子」(1623年)
 
ポンペオ・バトーニ「放蕩息子の帰還」(1772年)

イエスのたとえ話の中でも、もっとも有名なもののひとつである「放蕩息子のたとえ話」は、多くの芸術作品のテーマとなった。レンブラントホントホルストなど、北ヨーロッパのルネッサンスの多くの画家たちがこの主題を取り上げ描いた。

 
ジェームス・ティソ「放蕩息子の帰還」(1886-94年) ブルックリン美術館

また、15世紀と16世紀にはイギリスの道徳劇のサブジャンルともみなされるほどの人気であった[12]シェイクスピアも「ベニスの商人」や「お気に召すまま」「冬物語」でも言及されている。

"Lost and Found"

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「彼は失われていたが見いだされた」(Luke 15:11-32) という言葉は父の言葉としてルカの福音書のなかで二度使われているが、そこから遺失物取扱所、落とし物届、の意で使われるようになる。また「失われていたが見いだされた」という言葉は、無条件の神の愛によって救われる罪深い人間の救済を表すメタファーとなり、奴隷貿易の商人から転じて牧師となったジョン・ニュートン作詞の賛美歌アメイジング・グレイスの歌詞にも使われている。

脚注

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  1. ^ 直前までの節に《また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。》とあり、それを受けての《また言われた》である。《また言われた》は地の文であり、福音書記者ルカによるものと考えられる。《言われた》のはイエス・キリストである。
  2. ^ 父は健在である。
  3. ^ 旧約聖書『申命記』21章15〜17節に《「人がふたりの妻をもち、そのひとりは愛する者、ひとりは気にいらない者であって、その愛する者と気にいらない者のふたりが、ともに男の子を産み、もしその長子が、気にいらない女の産んだ者である時は、 その子たちに自分の財産を継がせる時、気にいらない女の産んだ長子をさしおいて、愛する女の産んだ子を長子とすることはできない。 必ずその気にいらない者の産んだ子が長子であることを認め、自分の財産を分ける時には、これに二倍の分け前を与えなければならない。これは自分の力の初めであって、長子の特権を持っているからである。》とあり、母が気にいらない女であるか否かにかかわらず、弟は長子の半分の額を相続できたものと思われる。
  4. ^ 旧約聖書『レビ記』11章7、8節に《豚、これは、ひずめが分かれており、ひずめが全く切れているけれども、反芻することをしないから、あなたがたには汚れたものである。 あなたがたは、これらのものの肉を食べてはならない。またその死体に触れてはならない。これらは、あなたがたには汚れたものである。》、また同じく『申命記』14章8節に《また豚、これは、ひずめが分れているけれども、反芻しないから、汚れたものである。その肉を食べてはならない。またその死体に触れてはならない。》とあるが、それを気にしていられないほど窮していたのであろう。
  5. ^ 息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった。
  6. ^ 場崎 洋 『イエスのたとえ話』p.159
  7. ^ ルカによる福音書(12章1節
  8. ^ 場崎 洋 『イエスのたとえ話』pp.170-175
  9. ^ 場崎 洋 『イエスのたとえ話』p.174
  10. ^ 創世記(2章15節-3章24節
  11. ^ 場崎 洋 『イエスのたとえ話』pp.163-164
  12. ^ Craig, Hardin (1950-04-01). “Morality Plays and Elizabethan Drama” (英語). Shakespeare Quarterly 1 (2): 64–72. doi:10.2307/2866678. ISSN 0037-3222. https://academic.oup.com/sq/article/1/2/64/5137044. 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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