拓北
拓北(たくほく)は北海道札幌市北区にある地名。JR北海道 学園都市線拓北駅の周辺の住宅地である。
拓北 | |
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拓北駅 北口 | |
北緯43度09分20.1秒 東経141度22分52.0秒 / 北緯43.155583度 東経141.381111度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 北海道 |
市町村 | 札幌市 |
行政区 | 北区 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
市外局番 | 011[1] |
ナンバープレート | 札幌 |
また、篠路新川以北の一帯を指して篠路町拓北と呼ぶ。もとは周辺の全域が篠路町拓北であったが、学園都市線沿いにあいの里ニュータウンが造成されたため、飛び地のようになっている。
歴史
編集札幌市北区の北東端、石狩川に接する辺りは、かつて釜谷臼(かまやうす)と呼ばれていた。アイヌ語で「平岩の岸があるところ」を意味する「カマ・ヤ・ウシ」に由来する地名である[2]。
明治10年代から入植者たちが訪れ、以下の部落が形成された[3]。
- 興産社(こうさんしゃ)
- 1881年(明治14年)4月、滝本五郎・阿部興人兄弟をはじめとする徳島県人が、5万円の資本金をもって「興産社」を結成して土地の貸下げを受けた[3]。翌1882年(明治15年)、徳島県より移住者を募って開墾を始める[3]。
- 1885年(明治18年)からは藍の栽培に専念するが、赤字がかさんだため1897年(明治30年)に普通の畑作に転換した[3]。
- 1902年(明治35年)ごろの地図にはまだ興産社の事務所が記載されていたが、その後に農場を手放して興産社は解散した[3]。
- 山口(やまぐち)
- 一帯の最北端で、明治初期には農場の持ち主の名を取って「山田開墾」と呼ばれていた[3]。
- 1892年(明治25年)、山口県人たちが農場を引き継いだため、「山口開墾」と改称された[3]。
- 大野地(おおやち)
- 一帯の南部で、泥炭低湿地であったためこの名がついた[3]。
- 1890年(明治23年)、アカンボ川排水溝が開削されたため土地が改良され、農耕地となった[2]。
1937年(昭和12年)3月3日の篠路村字名改称地番変更協議会にて、興産社・釜谷臼・大野地は北海道拓殖銀行の社有地であることと、拓殖精神を強調する意味から、一帯を拓北と改称することが決議された[3]。
1958年(昭和33年)7月、待望された鉄道駅が設けられ、旧地名をとって釜谷臼駅と名づけられる[2]。
1983年(昭和58年)11月21日以降、拓北駅周辺の住宅地が「篠路町拓北」から「拓北○条○丁目」へと町名変更されていく[4]。
1984年(昭和59年)8月27日、ニュータウン造成によりあいの里が区分される[4]。1995年(平成7年)3月16日には釜谷臼駅も「あいの里公園駅」となり、旧地名は消失した。
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滝本五郎「報徳碑」
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「北海道開拓百年」碑
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拓北記念碑
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旧地名を21世紀に残す山口橋
施設
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拓北小学校
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札幌三育小学校
脚注
編集参考文献
編集- 『札幌地名考』さっぽろ文庫1