折田泉
日本のヴァイオリニスト、作曲家
折田 泉(おりた いずみ、1909年10月10日[1][注釈 1] - 1972年1月4日[4])は、日本のヴァイオリニスト、作曲家[5]。
経歴
編集鹿児島県に生まれる[1]。元衆議院議員の実業家折田兼至の五男[6][7][8]。1927年に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業後[8][9]、東洋音楽専門学校を経て東京高等音楽学院(国立音楽学校)へ進学し[8]、アレクサンドル・モギレフスキー[6][8]と芝祐孟[注釈 2]に師事[1]、1932年に本科卒業[1][6]。新交響楽団(現・NHK交響楽団)でもヴァイオリンを弾いたが、手首を痛めて鹿児島県に帰郷[6]。失意の中にいたが石井漠舞踊団の後援をしていた兄に誘われ、再上京して入団し舞踊に伴奏するヴァイオリニストとなる[6]。黎明期だった洋楽界の基礎がために尽くす[8]。
1935年[注釈 3]石井漠の舞踏パートナーである石井みどりと結婚[5]。石井みどり舞踊団のヴァイオリニストとして活動[6]。ひとり娘に舞踏家の折田克子[8]。また、戦後米軍占領下の奄美大島で久保陽子の才能を見いだし、東京で面倒をみて音楽家として開花させる[8][11]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d 音楽年鑑 1970.
- ^ 星野 2018, p. 15.
- ^ 人事興信所 1921.
- ^ 「楽壇事情」『音楽年鑑 昭和48年版』音楽之友社、1973年、70頁。NDLJP:12431032 。
- ^ a b 石井みどり『よく生きるとは、よく動くこと』(草思社、2004年)著者紹介
- ^ a b c d e f 星野 2018, p. 16.
- ^ 南日本新聞社 1969, pp. 64–65, 一県一党体制築く.
- ^ a b c d e f g h 南日本新聞社 1969, pp. 516–517, ひめゆりの塔.
- ^ 鮫島眞男『立法生活三十二年 私の立法技術案内』(信山社、1996年)369-373頁 他著者「鮫島眞男の思い出」
- ^ 東京日日通信社 1927.
- ^ 定年時代 東京版平成19年7月上旬号 音楽は“祈り”それがわたしの心 バイオリニスト/久保陽子さん 2020年3月1日閲覧
参考文献
編集- 人事興信所 編「折田兼至」『人事興信録』(6版)人事興信所、1921年、を46頁。NDLJP:1704027 。
- 東京日日通信社 編「芝 祐孟」『現代音楽大観』日本名鑑協会、1927年、13頁。NDLJP:1173920 。
- 星野幸代「日本国内をめぐった戦時期慰問舞踊─石井みどり舞踊団1941–1945」『JunCture : 超域的日本文化研究』第9号、名古屋大学大学院人文学研究科附属「アジアの中の日本文化」研究センター、2018年3月23日、14-25頁、CRID 1390853649587235072。
- 南日本新聞社 編『郷土人系』 上、春苑堂書店、1969年。NDLJP:12290327。
- 「折田 泉」『音楽年鑑 昭和45年版』音楽之友社、1970年、89頁。NDLJP:2526523 。