戸次鎮連
戸次 鎮連(べっき しげつら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。大友氏庶流・戸次氏の16代当主。父は戸次鑑方[4]で、猶父は戸次鑑連(立花道雪)。弟に戸次鎮林(しげきみ/しげとき)[5]。子に統連[6]、戸次統利(むねとし)他。鎧ヶ岳城主。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天正14年(1586年) |
改名 | 幼名:千寿丸(千寿) |
別名 | 通称:紀伊守、伯耆守、右京大夫 |
戒名 | 助雪紹佐宗栄 |
官位 | 伯耆守 |
主君 | 大友義鎮 → 義統 |
氏族 | 戸次氏 |
父母 | 父:戸次鑑方、義父:戸次鑑連 |
兄弟 | 鎮連、鎮林 |
妻 | 志賀親守女 |
子 | 統連 (統常)、統利[1]、女(大村虎秀[2]室) |
略歴
編集豊後国の戦国大名・大友氏の家臣である戸次鑑方の長男として生まれる。鑑方の嫡男ながら天文22年(1553年)頃に子のなかった伯父の戸次鑑連の猶子となった。主君・大友義鎮(宗麟)と猶父・鑑連より1字ずつ賜って鎮連を名乗る。
以後は、筑前国・豊前国を転戦した。永禄10年(1567年)9月、鑑連に従って高橋鑑種の反乱鎮圧のために出陣[7]。秋月種実との休松の戦いにおいては、父・鑑方ら多くの一門や家臣が討死するなか、鎮連は奮戦して戦功を挙げた。天正6年(1578年)には日向国北部に侵攻し、土持親成らを討って、土持氏を滅亡に追い込んだ。しかし、同年6月に出陣した耳川の戦いにおいて、大友氏は島津氏に大敗北を喫し、豊後国内の情勢も風雲急を告げた。猶父・立花道雪らは大友氏の衰勢を挽回すべく筑前筑後で奮闘を続けた。
天正8年(1580年)、鎮連は道雪から檄文を送られているが、斜陽の大友氏を支えるべく南部衆(南郡衆)の一員として志賀道易 (道益、親度)、一萬田鎮実らと連署で主君・大友義統を諌める書状を提出したが[7]、聞き入れられなかった。天正13年(1585年)に、猶父・道雪が死去。いよいよ、大友氏の衰運は決定的となる。
天正14年(1585年)、大友家加判衆となるが、すでに民心も離れて一揆が起こる。そこに島津氏が北進して豊後国まで侵攻を始めたが、柴田紹安、志賀道雲、道易、朽網宗暦[9]、戸次玄三、一萬田紹伝、麻生紹和、鎮連[10]はすでに島津氏に内応しており、大友方に残った諸城も次々と陥落する[11]。
鎮連は、他の内応者と同様に大友義統によって誅殺、もしくは城を明け渡して自害に追い込まれたとするが、詳細は伝わっていない。嫡男の統連が統常に改名して跡を継いだ。
脚注
編集- ^ 戸次七左衛門。
- ^ 立花家臣・大村家治(立花淡路入道全長)の次男、通称は長左衛門または甚左衛門。名は「立花小全」ともいう。
- ^ a b 高本紫溟 編『国立国会図書館デジタルコレクション 立花遺香』国史研究会〈日本偉人言行資料〉、1916年 。
- ^ 『立花遺香』によると、鑑方は実は田原親賢の弟であるとされる。戸次中務の母が懐妊した時、正光院(由布惟常の娘、道雪の生母)が女子ならば母と共に暮らすようにと命じたが、果たして女子が生まれた。ちょうど同じ頃に紹忍の親の妻も男子を出産したが、民間信仰で「嫌年の子」とされる不吉な時期に生まれたので養子出す必要があり、交換したのだという。
話の出所は、紹運の家臣・有馬伊賀(立花宗茂初陣の後見役)の姉で紹忍の妻いそと、宗茂の生母・宋雲院との会話であるが、正光院は道雪を産出した翌年の1514年に病歿したので、原文でも「しかと承り得ず」として人物は不明とする。養孝院(臼杵長景の娘、道雪の継母)の間違いかもしれない。紹忍の親の妻が、実父奈多鑑基の室なのか、養父田原親資の室なのかは言及されていない[3]。 - ^ 立花の姓を与えられる。文禄の役で戦死。
- ^ 『立花遺香』によると、戸次鎮連の最初の実子は誕生して1ヶ月も経たずに亡くなった。戸次中務の妻(鎮連の母)は大変嘆いて、臼杵刑部(一説には臼杵民部鑑良)の本妻と妾が同月に男子を産んだので、妾の子を中務の妻がもらい受けて、息子鎮連の養子に仕立てたのだという[3]。
- ^ a b 阿部 1990, p. 679.
- ^ 佐藤蔵太郎 1926, p. 36.
- ^ 別説あり。『鶴賀城戦史』による[8]。
- ^ 別説あり。実際に内応したかは不明。嫌疑をかけられたのはほとんど南部衆で、他の南部衆が裏切ったために同様に疑いをかけられたとも、諌言を繰り返して義統に疎まれていたためとも云う。
- ^ 佐藤蔵太郎 編『国立国会図書館デジタルコレクション 鶴賀城戦史』得丸悦治、1926年、36-37頁 。
参考文献
編集- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、679頁。ISBN 4404017529。