奈多鑑基
戦国時代の武将。大友氏の家臣。和泉守。宇佐公基--奈多国基(奈多八幡大宮司、大和守)--行基(子に之盛)--雄基--直基-秀基--隆実(子孫に誠基--恒基)--奈多宗心-鑑基。子に奈多政基(-1
奈多 鑑基(なだ あきもと)は、戦国時代の武将。大友氏の家臣。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 永禄12年7月15日(1569年8月27日) |
官位 | 和泉守 |
主君 | 大友義鑑→義鎮(宗麟) |
氏族 | 奈多氏 |
父母 | 父:奈多宗心 |
妻 | 田北親員娘 |
子 |
政基、親基(田原親賢)、鎮基、 奈多夫人(大友義鎮正室) |
生涯
編集大永2年(1522年)、大友家臣田北親員の子で田北鑑生の妹を娶っている。
大友義鑑から偏諱を受け鑑基を名乗る。奈多八幡大宮司を継いだ鑑基は、義鑑の子義鎮(宗麟)から寺社奉行に任じられている。また、鑑基は大友氏の武将として、数々の合戦に出陣し戦功を挙げるが、永禄12年(1569年)に毛利軍と対陣し、立花山城攻防戦いに参戦して陣没した(病没した)といわれる。
長子・政基は、永禄8年(1565年)7月(一説には5月17日)の立花鑑載討伐の際に戦死していたため、鎮基が家督を継ぐ。
鑑基の死去後、跡を継いだ鎮基は天正15年(1587年)に亡くなり、養子の万福丸(久我晴通の子)が継ぐが、後に京都に帰ってしまい、奈多氏は断絶した。