戴復古
戴 復古[1][2][3](たい ふくこ、1167年(乾道3年)〜?)は、「狂夫は本と是れ農家の子」[4]というふうに、台州黄巌県の農民であり、南宋時代の江湖派[5][注 1]の代表的詩人である。字は式之(しきし)。郊外の石屏山に住んでいたことに因んで、号は石屏(せきへい)とした[6]。台州黄巌県南塘(現在の浙江省台州市温嶺市)の人。幼時に死んだ父の戴敏(たいびん)は、処士[7][注 2]で終わったが、東皋子(とうこうし)と号する農民詩人でもあった。戴復古は、成長してから詩に思いを残した父の遺言を聞かされ、父と同じく一生官職に就かず、職業詩人として各地の有力者に詩を献上して謝礼を貰い、生活した[8][注 3]。
戴復古 | |
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プロフィール | |
出生: | 1167年(乾道3年) |
職業: | 詩人 |
各種表記 | |
繁体字: | 戴復古 |
簡体字: | 戴复古 |
拼音: | Dài Fùgŭ |
発音転記: | たい ふくこ |
略歴
編集南宋の孝宗の時代に生まれた。最初、林憲について詩を学び、ついで同郷の徐似道(じょじどう)に就き、後には陸游に学んだ。
紹定5年(1232年)、邵武府学教授となる[9]が、現在の四川省を除いて、浙江・福建・広西・湖南・江西・江蘇の各地を巡り、職業詩人として生業をたてた。理宗の淳祐元年(1241年)、故郷に帰ったときには、既に70歳を超えていた[10]。非常に長命であり、80歳以上まで生きたことは確実で、晩年は故郷に落ち着いたうえで没したらしい[11]。
親族
編集- 父:戴敏(たいびん)…(?〜1168?)、字は敏才。号は東皋子(とうこうし)。『小園』という詩を書いた[12]。
作品
編集詩風
編集戴復古の作品は、江湖派の流れを汲み、詩風は永嘉の四霊[13][注 4]が提唱した晩唐の詩に学んだものであるが、政治批判を含む社会詩も多く作っている。
後に江西派の風格も混入し、「自ら嘲(あざけ)る」という詩には、
自ら嘲る 原文 書き下し文 賈島形模原自瘦 賈島の形模 原(も)と自ら痩せ 杜陵言語不妨村 杜陵の言語 村なるを妨げず
とあり、賈島は江湖派の「二妙」[14][注 5]の中の一「妙」であり、杜甫は江西派のいわゆる「一祖三宗」[14][注 6]の中の一「祖」である。この詩の2句は、2つの流派の仲裁をしようという彼の企てが示されている[15]。
戴復古の詩集は、『石屏詩集』(せきへいししゅう)[16]といい、趙汝讜(ちょうじょとう)が130首を選んだのちに始まり、今は10巻。『石屏詩集』には、放浪の境涯をうたう詩が多い。他に、『続集』4巻。『石屏詩』がある。
著名な作品
編集市舶提挙管仲登飲于万貢堂有詩(市舶提挙管仲、万貢堂に登飲し、詩有り)[11] | ||
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原文 | 書き下し文 | 通釈 |
七十老翁頭雪白 | 七十の老翁 頭(かしら)雪白 | 雪のような白髪をいただく七十の老いぼれが |
落在江湖売詩冊 | 江湖に落在して詩冊を売る | 広い世間に放り落とされ、詩を売り歩く商人暮らし |
平生知己管夷吾 | 平生の知己(ちき) 管夷吾 | 旧交の深い管夷吾さんのおかげで |
得為万貢堂前客 | 万貢堂前の客と為るを得たり | この万貢堂の門前に身を寄せることができた |
嘲吟有罪遭天厄 | 嘲吟 罪有りて 天厄に遭ひ | 棘のありすぎる詩をうたったのがいけなかったのだ、天のお咎めを受け |
謀帰未辦資身策 | 帰るを謀るも 未だ身に資するの策を辦(ととの)へず | 帰郷を計画しようにも、先立つものの工面が難しい |
鶏林莫有買詩人 | 鶏林 詩を買うの人有る莫きや | ひょっとすると、私の詩を買ってくれる鶏林の商人がいるかもしれない |
明日煩公問蕃舶 | 明曰 公の蕃舶に問ふを煩はさん | お手数ながら、明日になったら外国の貿易船に問い合わせてみては頂けないか |
淮村兵後(淮村の兵後)[17] | ||
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原文 | 書き下し文 | 通釈 |
小桃無主自開花 | 小桃 主無くして 自(ひと)り花を開き | 小さな桃の木は、家の主人はいなくても、独り花をつけ、あてどもなく広がる |
煙草茫茫晩鴉を帯 | 煙草 茫茫として 晩鴉(ばんあ)を帯ぶ | 煙のような草原に、ねぐらへ帰るカラスの影 |
幾処敗垣囲故井 | 幾処の敗垣(はいえん)の故井を囲めるは | 崩れた土塀の中の古井戸が、幾つとなく見えるのだが |
向来一一是人家 | 向村 一一 是れ人家なりき | あれは、ひとつひとつ元は皆、人の住まいだったと思う |
評価
編集肯定的な評価
編集- 13世紀初、寧宗の慶元年間以来、職業詩人は高官に取り入って巨額の金品を貪る者が多かったが、方回(ほうかい)は、「高きところは頗る清健」[18][注 7]と評価した[19]。
- 姚鏞(ようよう)は、「その大、高適に似たり」[20][注 8]と評価した[10]。
- 真徳秀は、「孟浩然に減ぜず」と評価した[10]。
- 趙與虤(ちょうよがん)の『娯書堂詩話』では、新味があってとてもいいと褒めちぎっている[21]。
否定的な評価
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 「江湖派」とは、民間の意であり、名称は、首都杭州の書賈の陳起(ちんき)が、同時の詩人109人の詩を、叢書として刊行し、「江湖詩集」と名付けたことからおこる。
- ^ 「処士」とは、学識や人格を備えながら隠居して仕官しない人。
- ^ 「戴復古得知父親惨痛的遺言、就立志学詩、決意“傳父業、顕父名”。」
- ^ 「永嘉の四霊」とは、寧宗の時代の浙江東海岸の都市である永嘉すなわち温州の人であって、趙師秀(ちょうししゅう)は字を紫芝(しし)また霊秀(れいしゅう)、翁巻(おうけん)は字を霊舒(れいじょ)、徐照(じょしょう)は字を道暉(どうき)また霊暉(れいき)、徐璣(じょき)は字を道淵(どうえん)また霊淵(れいえん)、みな霊の字を別名に含む4人の同人であった。
- ^ 「二妙」とは、唐の賈島と姚合の2人の詩人を指す。「永嘉の四霊」の1人である趙師秀がこの2人の詩を選んで『二妙集』を編纂したことによる。
- ^ 「一祖三宗」とは、江西派の流れを汲む元の方回(ほうかい)の唱えた説。黄庭堅が尊んだ唐の杜甫を「祖」とし、北宋の黄庭堅・陳師道・陳与義の3人を「三宗」として尊んだ。
- ^ 「清健」とは、清く、すこやかの意。
- ^ 「天然で人工を加えないところは、唐の高適によく似ており、晩唐の諸子は彼にやや顔負けする。
出典
編集- ^ 近藤 1978, p. 497.
- ^ 中国文学家大辞 1961, p. 758.
- ^ 中国文学大辞典, p. 7668.
- ^ 王国瓔『中国文学史新講』聯經出版事業公司講、2014年6月、538頁。
- ^ 吉川 1962, pp. 228–230.
- ^ 筧・野村 2006, p. 259.
- ^ 『漢辞海』(第4版)三省堂、2017年1月10日、159頁。
- ^ 戴復古集 2012, p. 2.
- ^ 張 1982.
- ^ a b c d e 今関・辛島 1968, p. 273.
- ^ a b 前野 1977, p. 200.
- ^ 戴復古集 2012, p. 379.
- ^ 吉川 1962, p. 225-227.
- ^ a b 宋詩選注 2005, p. 37.
- ^ 宋詩選注 2005, pp. 35–37.
- ^ 内山 2013, p. 241.
- ^ 小川 1963, pp. 291–292.
- ^ 『大漢和辞典』 7巻、大修館書店、1980年8月1日、64頁。
- ^ 吉川 1962, pp. 230–233.
- ^ 筧・野村 2006, p. 261.
- ^ a b 筧・野村 2006, p. 262.
参考文献
編集- 今関天彭、辛島驍『宋詩選』(第3刷)集英社、1968年6月25日。
- 小川環樹『世界文学大系7B』筑摩書房〈中国古典詩集〉、1963年1月31日。ISBN 9784001005172。
- 筧文生、野村鮎子『四庫提要南宋五十家研究』汲古書院、2006年2月28日。ISBN 9784762927485。
- 前野直彬『宋詩鑑賞辞典』東京堂出版、1977年9月30日。ISBN 9784490105025。
- 吉川幸次郎『中国詩人選集二集』 1巻、岩波書店、1962年10月22日。
- 『戴復古集』浙江大学出版社、2012年8月。
- 張健「厳羽と戴復古の交遊及び論持をめぐって」、中文研究会、1982年2月。
- 『宋詩選注』 4巻、平凡社、2005年4月20日。
- 『中国文学家大辞典』文史出版社、1961年10月、758頁。
- 『中国文学大辞典』百川書局、中華民国83年、7668頁。
- 近藤春樹『中国学芸大事典』大修館書店、1978年10月20日、497頁。ISBN 9784469032017。
- 内山知也『新釈漢文大系 別巻 漢籍解題事典』明治書院、2013年5月10日、241頁。ISBN 9784625673177。
- 山本和義『宋代詩集』角川書店、1988年2月28日、205頁。
- 松下緑『人生の漢詩』亜紀書房、2009年8月6日、166-167頁。ISBN 9784750509136。