慶華公主(けいかこうしゅ、경화공주)は、高麗の第27代王忠粛王の妃。モンゴル人で、本名は伯顔忽都(バヤン・クトゥク)。

慶華公主
경화공주
高麗王后

全名 伯顔忽都
別称 粛恭徽寧公主(諡号)
出生 ?
死去 至正4年6月15日
1344年7月24日
高麗開京
配偶者 忠粛王
父親 アムガ
テンプレートを表示

家系について多くは不明であるが、森平雅彦の皇族アムガの娘の金童(忠粛王の妃)の姉妹ではないかとする[1]。妻の死後にその姉妹を娶るソロレート婚になる[2]

忠粛王に降嫁したのは、おそらく1330年から1333年である[2]。『高麗史』には、忠粛王の死後、継子の忠恵王が酒に酔った勢いで慶華公主を強姦し、無理やり愛妾としたと記されている[3]

1367年に元より粛恭徽寧公主(숙공휘령공주)を贈される[1]

家族

編集

脚注

編集
  1. ^ a b 森平雅彦 2008, pp. 14
  2. ^ a b 森平雅彦 2008, pp. 15
  3. ^
    慶華公主伯顔忽都,蒙古女,王在元,娶之。後二年,與王來。五年,開府曰慶華,置官屬。王薨,忠惠再宴公主于永安宮,公主亦邀忠惠宴。及酒罷,忠惠佯醉不出,暮入公主臥內。公主驚起,忠惠使宋明理輩扶之,使不動,且掩其口,遂蒸焉。翌日,公主恥之,欲還于元,使買馬。忠惠命李儼、尹繼宗等禁馬市,不得賣馬。元使頭麟等來,進御酒于公主,執忠惠以歸。公主囚贊成事鄭天起于征東省,仍命金之謙權征東省,金資提調都僉議使司。忠惠五年薨,葬以禮。恭愍十六年,元贈諡肅恭徽寧公主。 — 高麗史、巻八十九

参考文献

編集
  • 森平雅彦高麗王家とモンゴル皇族の通婚關係に關する覺書」『東洋史研究』第67巻第3号、東洋史研究会、2008年12月、363-401頁、doi:10.14989/152117NAID 40016449497