慶安御触書
慶安御触書(けいあんのおふれがき)または慶安の触書は、江戸幕府が農民統制のため発令した幕法とされていた文書。 末尾に慶安2年2月26日(1649年4月7日)の日付のある32条からなる文書である[1]。
原本は発見されておらず、写本によれば百姓に対し贅沢を戒め、農業など家業に精を出すよう求めたものであり、32ヵ条と奥書から成り立つ。農政の基本方針が小百姓の育成とはっきり決まったことを意味する[2]。
主な内容
編集底本により含まれる条文は異なるが、以下に一例を挙げる。
- 幕府の法令を怠ったり、地頭や代官のことを粗末に考えず、また名主や組頭のことは真の親のように思って尊敬すること。
- 酒や茶を買って飲まないこと。妻子も同じ。
- 農民達は粟や稗などの雑穀などを食べ、米を多く食べ過ぎないこと。
- 農民達は、麻と木綿のほかは着てはいけない。帯や裏地にも使ってはならない。
- 早起きをし、朝は草を刈り、昼は田畑を耕作し、夜は縄を綯い、俵を編むなど、それぞれの仕事を油断無く行うこと。
- 男は農耕、女房は機織りに励み、夜なべをして夫婦ともよく働くこと。たとえ美しい女房であっても、夫のことをおろそかにし、茶を飲み、寺社への参詣や遊山を好む女房とは離別すること。しかし、子供が多くあり、以前から色々と世話をかけた女房であれば別である。また、容姿が醜くても、夫の所帯を大切にする女房には、親切にしてやるべきである。
- 煙草を吸わないこと。これは食物にもならず、いずれ病気になるものである。その上時間もかかり、金もかかり、火の用心も必要になるなど悪いものである。全てにおいて損になるものである。
実在性の論争
編集江戸時代の『徳川実紀』や明治期に司法局が編纂した幕府法令集『徳川禁令考』に収録されたことから、幕法であるとする見解が広く流布していた。昭和戦後期には民衆史への関心の高まりからも幕府の農民統制を示す史料として注目され続け、歴史教科書においても紹介されていた。
しかし、明治期から疑問視する説や偽書説が存在していた[3]。キリスト教を禁止する規定がないことや、『御触書集成』など幕府の法令集に収録されていないことなどを理由に、実在を疑問視する指摘がなされてきた[3]。
江戸時代の農村の古文書や幕府関係者の日記類などにも見当たらないことから、幕府の公布した法令ではないという学説が有力になっている[1]。
発生への経緯
編集「慶安御触書」の呼称が用いられ広く知られるようになったきっかけは美濃国岩村藩で出版された文政13年(1830年)の木版本である[1]。肥前国平戸藩主の松浦静山『甲子夜話』によれば、静山は幕府学問所総裁の林述斎から岩村藩に慶安年間発令の幕法が存在していると聞かされており、述斎は藩政改革が実施されていた岩村藩において「慶安御触書」を流布させていたという。述斎は「慶安御触書」を『徳川実紀』にも収録させており、これを契機に社会構造が動揺し飢饉や一揆などが多発した天保年間には「慶安御触書」は慶安年間の幕法として諸国に広まったと考えられている。
しかし、『甲子夜話』にある岩村藩に触書が伝来している旨の林述斎の話は、史料の残存状況から疑問視されている[1]。慶安2年当時の原本が見つからない事や、甲斐国や信濃国など一部の地域でしかこれを記した文書が見つからないことなどから偽書・偽文書とみなす説や、幕府や諸藩が出した農民統制の法令を慶安年間に仮託して集成したものとする説も現れた。その一説として、100年以上も後の宝暦 - 天明期(1751-1789年)の農民教諭書が修正・補筆されて「慶安御触書」として流布されたというものもある。近年では、「慶安御触書」を記載しないか、「慶安御触書」という表現をぼかす歴史教科書も多くなっている。
そこで「慶安御触書」について記された岩村藩の文政13年(1830年)の木版本のルーツが議論になっている[1]。
脚注
編集参考文献
編集関連項目
編集日本中世史の歴史家である藤木久志は、『慶安御触書』とこれら2つの史料を、「みじめな民衆三点セット」と呼んだ。