息長浄継
息長 浄継(おきなが の きよつぐ、生没年不詳)は、奈良時代の官人。名は清健(きよたけ)・清継とも記される。姓は連のち真人。官位は外従五位下・尾張介。
経歴
編集称徳朝の天平神護元年(765年)右京の人で内匠寮史生正八位上・息長清健が連姓から真人姓に改姓しており、浄継と同一人物ではないか、と言われている[誰?]。息長連は応神天皇皇子稚渟毛二派王の後裔と称し[1]、息長真人の一族とされる[2]。天平神護2年(766年)従六位下から四階昇進して外従五位下に昇叙される(この時の名は浄継)。
その後、しばらく記録には現れないが、桓武朝の延暦5年(786年)になって木工助に任ぜられると、雅楽助を経て、延暦8年(789年)桓武天皇の皇太后高野新笠の喪葬に際して、藤原継縄らとともに御葬司を務める。翌延暦9年(790年)尾張介として地方官に転じた。
官歴
編集『続日本紀』による。