恭帝 (東晋)
恭帝(きょうてい)は、東晋の第11代(最後)の皇帝。孝武帝の次男。諱・字は徳文。
恭帝 司馬徳文 | |
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東晋 | |
第11代皇帝 | |
王朝 | 東晋 |
在位期間 |
義熙14年12月17日 - 元熙2年6月11日 (419年1月28日 - 420年7月7日) |
都城 | 建康 |
姓・諱 | 司馬徳文 |
字 | 徳文 |
諡号 | 恭皇帝 |
生年 | 太元11年(386年) |
没年 |
永初2年9月30日 (421年11月10日) |
父 | 孝武帝 |
母 | 陳淑媛 |
后妃 | 恭思皇后褚氏 |
陵墓 | 沖平陵 |
年号 | 元熙 : 419年 - 420年 |
生涯
編集知的障害とされる同母兄の安帝と異なり、英明な資質があったと評される。日常生活が不可能だった安帝を誠実に補佐する一方、篤実な仏教徒でもあった。太元17年(392年)、琅邪王に封ぜられ[1]、後に中軍将軍・散騎常侍を拝命された。隆安2年(398年)、衛将軍・開府儀同三司となった。翌年には侍中・領司徒・録尚書六条事に任じられた[2][3]。
元興元年(402年)、太宰となったが、元興3年(404年)には桓玄の簒奪により石陽県公に降格され、安帝と共に尋陽へ放逐されてから江陵に移された。桓玄の敗死後、建康に帰って琅邪王の爵位を回復し、大司馬・徐州刺史を拝命された。義熙4年(408年)、再び領司徒に任じられ、義熙6年(410年)には都督宮城諸軍事となり、中皇堂に駐屯した。義熙12年(416年)、劉裕の北伐に従軍して洛陽の山陵を拝謁し、翌年に北伐軍の回軍に伴い帰還した[2][3]。
この頃、簒奪を企てた劉裕が安帝を殺害しようとしているのを察知し、常に安帝の傍で守った。しかし、義熙14年12月(419年1月)に司馬徳文が不在の際、安帝は殺害された。その後、劉裕により皇帝として擁立されたが、これはもはや禅譲の布石としての傀儡に過ぎなかった[4]。
元熙2年(420年)、遂に劉裕に禅譲することを余儀無くされた。こうして東晋は滅亡し、新たに劉裕(高祖武帝)による南朝宋が成立したのである。禅譲に際しては「晋(東晋)はとうに滅んでいたはずだった。何を恨むことがあろう」と言ったと『晋書』に記されている[3]。
恭帝は南朝宋により零陵王に封じられたが、永初2年(421年)9月に暗殺された[3]。
東晋の正統性を認めていない『魏書』によれば、秣陵宮になだれ込んだ劉裕の兵に服毒自殺を命じられたが、仏教徒であった恭帝は「仏教では、自殺者は人に転生できない」と拒んだので撲殺されたという。また、同書によれば皇后褚氏の兄の褚季之と弟の褚淡之は武帝に通じて、恭帝の子が生まれる度に殺害したという[5]。
逸話
編集幼い頃の恭帝は残忍ながらも気早な性格を持っていた。琅邪王として藩国にいた時、恭帝は弓取りに馬を撃つようにすることを娯楽とした。これに対してある人が「馬は国姓(司馬氏)なのにそれを自ら殺すなんて、非常に縁起が悪いです」と警告すると、恭帝も自分の行動を後悔したという。後に千万銭を費やして6丈高さの金仏を製造するほど仏教を深く信奉し、瓦官寺まで10里余りを歩きながら仏像を迎えた[3]。
宗室
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