哀帝 (東晋)
哀帝(あいてい)は、東晋の第6代皇帝。諱は丕、字は千齢。第3代皇帝成帝の長男。
哀帝 司馬丕 | |
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東晋 | |
第6代皇帝 | |
王朝 | 東晋 |
在位期間 |
升平5年5月25日 - 興寧3年2月22日 (361年7月13日 - 365年3月30日) |
都城 | 建康 |
姓・諱 | 司馬丕 |
字 | 千齢 |
諡号 | 哀皇帝 |
生年 | 咸康7年(341年) |
没年 |
興寧3年2月22日 (365年3月30日) |
父 | 成帝 |
母 | 周貴人 |
后妃 | 哀靖皇后王氏 |
陵墓 | 安平陵 |
年号 |
隆和 : 362年 - 363年 興寧 : 363年 - 365年 |
生涯
編集成帝が崩御した際、わずか2歳であった。当時、外戚の庾冰は「国難の時期に幼君は相応しくない」という理由で司馬丕の帝位承継を遮り、叔父の康帝が代わりに即位した[1]。
咸康8年(342年)、琅邪王に封じられ、永和元年(345年)に散騎常侍となった。永和12年(356年)、中軍将軍が加わり、升平3年(359年)に驃騎将軍を拝命された[2]。
升平5年(361年)、従弟の穆帝が後嗣なく崩御すると、褚太后の命により即位。しかし、成漢征討や洛陽奪回の功勲者桓温と皇室の長老であり大叔父の会稽王司馬昱が実権を握っており、哀帝自身は傀儡同然であった。そのためか、政務は顧みないまま仏法を好み、不老長寿を求める長生術に没頭した[3]。ついには丹薬の中毒により日常生活が不可能になった結果、興寧2年(364年)3月から褚太后が再び摂政として臨んだ[2]。
興寧3年(365年)正月、皇后王氏と死別し、哀帝も同年2月に西堂で崩じた。享年は25歳[2]。
弟の司馬奕が帝位を継いだ。
宗室
編集
后妃
編集- 王穆之(哀靖皇后)
子女
編集- 1人の男子(庶出、363年 - ?)
脚注
編集伝記資料
編集- 『晋書』巻8 帝紀第8 哀皇帝