恩貴島
恩貴島(おきしま[1])は、大阪府大阪市此花区の地名。明治から昭和の町名として、恩貴島南之町(おきじまみなみのちょう)・恩貴島北之町(おきじまきたのちょう)があり[2]、現在の伝法・酉島・島屋・春日出北・春日出中の各地域にまたがった[3]。
歴史
編集江戸期から明治22年(1889年)までの村名として恩貴島新田があり、摂津国西成郡に属した[1]。はじめ沖島と呼ばれる場所があり、元禄年間(1688 - 1704年)に行われた大宮仁左衛門による開発で沖島新田となった[1]。宝暦2年(1752年)に島屋市兵衛(島屋新田の開発者[4])の所有になった後、宝暦9年(1759年)の正蓮寺川の開削で南北に分かれ、南側は南沖島、北側は北沖島と俗称されるようになる[1]。たびたび堤防が決壊したことから、安永7年(1778年)に恩貴島新田へと改称[1]。明治2年(1869年)より大阪府に属した[1]。
沿革
編集- 1889年(明治22年)、川北村の大字となり、西成郡川北村大字恩貴島新田となる[1]。
- 1897年(明治30年)、大阪市西区の大字となり、西区川北大字恩貴島となる[5]。
- 1900年(明治33年)、西区の町名として恩貴島南之町・恩貴島北之町となる[2]。
- 1925年(大正14年)、両町ともに此花区に転属[2]。
- 1926年(大正15年)、恩貴島南之町の一部が春日出町下1 - 2丁目となる[6]。
- 1960年(昭和35年)、恩貴島北之町が酉島町1 - 9丁目、伝法町南1 - 3丁目に編入され、消滅[7]。
- 1975年(昭和50年)、恩貴島南之町が島屋1 - 6丁目、春日出北1 - 3丁目、春日出中1 - 3丁目となり、消滅[8]。
その後の恩貴島
編集行政地名としての恩貴島がなくなった後も、正蓮寺川に架かる恩貴島橋(伝法6丁目、酉島1丁目、春日出北1・2丁目)や、恩貴島公園(春日出南3丁目)[9]、恩貴島緑地(同)[9]などにその名が残る。
脚注
編集- ^ a b c d e f g 『角川日本地名大辞典27』263頁。
- ^ a b c 『角川日本地名大辞典27』263-264頁。
- ^ 『角川日本地名大辞典27』263-264、298-299、590、842、1157頁。
- ^ 『角川日本地名大辞典27』590頁。
- ^ 『角川日本地名大辞典27』263、917頁
- ^ 『角川日本地名大辞典27』263-264、298頁。
- ^ 『角川日本地名大辞典27』263、842、1157頁。
- ^ 『角川日本地名大辞典27』263-264、298-299、590頁。
- ^ a b “公園のご案内”. 此花区ホームページ. 大阪市此花区役所 (2022年2月15日). 2022年5月1日閲覧。
- ^ “恩貴島地域活動協議会”. 此花区ホームページ. 大阪市此花区役所 (2022年1月18日). 2022年5月1日閲覧。