性応法親王

江戸時代の法親王

性応法親王(しょうおうほうしんのう、元禄3年11月8日1690年12月8日) - 正徳2年8月15日1712年9月15日[1])は日本法親王

生涯

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霊元天皇の第10皇子[2]。母は五条経子(菅中納言局)[1]。号は八十宮、後に澤宮[1]

元禄4年(1691年)5月16日に大覚寺の附弟となる。元禄13年(1700年)8月21日に親王宣下を受け、寛敦親王と称する。同年10月11日に得度宝永6年(1709年)5月12日に二品に叙される。正徳2年(1712年)8月15日、23歳で死去[1]

脚注

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  1. ^ a b c d 『系図綜覧 上巻』名著刊行会、1964年、p.44「詰所系図」
  2. ^ 村岡空『嵯峨大覚寺―人と歴史』朱鷺書房、1988年[要ページ番号]

外部リンク

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