万里小路睦子
万里小路 睦子(までのこうじ ちかこ、天保5年6月15日(1834年7月21日[1]) - 大正10年(1921年)2月20日)は、江戸時代後期から大正時代の女性。第9代水戸藩主徳川斉昭の側室。松平昭訓、有栖川宮熾仁親王妃貞子、土浦藩主土屋挙直、水戸藩主徳川昭武、守山藩主松平頼之の母。
父は万里小路建房。初名富姫。側室になる際に仁科氏の実子扱いの養女となり、仁科睦子ともいう。秋と称する。斉昭没後は秋庭と号し、後にこれを戸籍名として水戸徳川家に入籍したため、戸籍氏名は徳川秋庭。また万里小路秋庭とも称される。お印は雀[2]。
生涯
編集権大納言万里小路建房の七女(または六女)として京に生まれる。母は家女房・安藤寿美。同母妹に宮中女官となった万里小路幸子(浜萩典侍)[注釈 1][3]がいる。建房が50歳を超えてからの娘で、家督を継いだ異母兄万里小路正房は32歳上、甥の万里小路博房も10歳年上である。
嘉永元年(1848年)、江戸に下り水戸藩の前藩主・徳川斉昭の側室となった[4]」。権大納言の娘をそのまま側室とすることがはばかられたのか、一条家医師仁科周良の実子扱いで養女となり、この頃に「睦子」と諱を付けられたと考えられる。中臈となり「秋」と称された。側室の中で最も厚遇されたという[4]。同年12月(1849年1月)余四麿(松平昭訓)、嘉永3年(1850年)茂姫(貞子)、嘉永5年(1852年)余七麿(土屋挙直)、嘉永6年(1853年)余八麿(徳川昭武)、安政3年(1856年)廿麿、安政5年(1858年)廿二麿(松平頼之)の5男1女を産んだ。
安政6年(1859年)8月、斉昭が水戸で永蟄居中に死去すると「秋庭」と号し、のち明治時代にこれを戸籍名とした。
明治17年(1884年)6月、前年に水戸徳川家当主を隠居していた昭武とともに、松戸邸(現在の千葉県松戸市にある戸定邸)に移り住んだ。
文芸等
編集訃報記事[5]に「書、歌に秀で、徳川斉昭の歌の編輯」をしたことが伝えられ、歌集としては『面影』『秋庭詠草』がある。
また、歌集、物語の書写物も多く残している。とくに擬古物語の書写本は6本が現存しており[注釈 2]、近世女性としては特筆すべき多さである[6]。
他には、篳篥の演奏を得意とし、万年青の栽培も趣味とした[2]。
また、祖先に後醍醐天皇の側近・万里小路藤房を持つ[注釈 3]ことから、南朝に強い関心を持っていたらしい。水戸藩の『大日本史』では南朝を正統としており、斉昭も当然ながら南朝びいきであった。川路聖謨が奈良奉行の頃、南朝の御所跡に生えていた竹を切って、斉昭に贈ったことがあった。この時睦子は、万里小路家に分けてやりたいので、この竹を少しでも分けてほしいと斉昭に申し出たという[7]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 天保6年(1835年)~大正7年(1918年)。主に英照皇太后、昭憲皇太后に仕えた。松戸徳川家伝来の品々の中には、万里小路幸子が英照皇太后より拝領したものが数点あり、幸子を通じて伝わったとみられる。
- ^ 『石清水物語』慶應義塾大学図書館蔵、『風につれなき』愛知教育大学附属図書館蔵、『苔の衣』宮内庁書陵部蔵、『住吉物語』宮内庁書陵部蔵、『とりかえばや』宮内庁書陵部蔵、『松浦宮物語』宮内庁書陵部蔵。なお6本すべて、本文の1丁表に「万里/小路/睦子」の朱印が押されている。
- ^ 万里小路家は戦国時代中期に一度断絶し、同流の勧修寺家により再興されたため、血縁上の祖先ではない。
出典
編集- ^ 『墓碑史蹟研究 55』(墓碑史蹟研究発行所、1928年)p.798
- ^ a b 『プリンセス・トクガワー近代徳川家の女性たち 解説シート』(松戸市戸定歴史館、2020年)p.2
- ^ 『プリンス・トクガワ』松戸市戸定歴史館 (編)、松戸市戸定歴史館、2021年改訂版、10頁。
- ^ a b 「嘉永初年來りて烈公の側室となり。眷遇尤も厚し。」『増補水戸の文籍』清水正健、水戸の学風普及会、1934年、27頁。
- ^ 『読売新聞』1921年2月25日付
- ^ 中島正二「「プリンス・トクガワ」の生母万里小路睦子の擬古物語書写活動について」『平安文学の古注釈と受容』第二集、2009年、79-91頁。
- ^ 「斉昭の側室の一人、中臈秋という女性は万里小路家の出身で、いろいろ本も読んで南朝のことを調べ、ぜひその竹を少しでもわけてほしい、京都の万里小路家へもわけてやりたいからというと、同じく延光への手紙にはある。」山川菊栄『幕末の水戸藩』、岩波文庫版p181