徳川喜翰
大正・昭和期の政治家、華族
德川 喜翰(とくがわ のぶもと、1897年(明治30年)1月31日[1] - 1938年(昭和13年)5月10日[1][2])は、日本の政治家・華族(男爵)。貴族院男爵議員。新字体で徳川 喜翰とも表記される。
德川喜翰 とくがわ のぶもと | |
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生年月日 | 1897年1月31日 |
没年月日 | 1938年5月10日(41歳没) |
出身校 | 京都帝国大学 |
前職 | 日本大学講師 |
所属政党 | 公正会 |
配偶者 | 徳川美代子 |
親族 |
祖父・徳川慶喜(征夷大将軍・貴族院議員) 祖父・松平慶永(大蔵卿) 父・徳川厚(貴族院議員) 義父・白井新太郎(貴族院議員) 弟・大木喜福(貴族院議員) 従弟・蜂須賀正氏(貴族院議員) 従弟・四条隆徳(貴族院議員) 従弟・徳川慶光(貴族院議員) 従弟・朽木綱博(貴族院議員) |
選挙区 | 男爵議員 |
在任期間 | 1932年1月22日 - 1938年5月10日 |
経歴
編集男爵・徳川厚の長男として生まれる[1][3][4]。父の隠居に伴い、1927年(昭和2年)10月15日、男爵を襲爵した[1][3][5]。
1922年(大正11年)京都帝国大学法学部を卒業し、さらに同大学院を修了した[2][3]。1925年、宮内省図書寮嘱託となる[2][3]。以後、貴族院嘱託、日本大学講師などを務めた[2][3]。
1932年(昭和7年)1月22日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[6][7]、公正会に所属して活動し死去するまで1期在任した[2][8]。墓所は谷中霊園の寛永寺墓地。
親族
編集脚注
編集参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第10版 下』人事興信所、1934年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 下巻』社団法人霞会館、1996年。
- 杉謙二編『華族畫報 下』吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。
日本の爵位 | ||
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先代 徳川厚 |
男爵 徳川家(宗家分家)第2代 1927年 - 1938年 |
次代 徳川喜堅 |