後藤敏康
後藤 敏康(ごとう としやす[1]、1852年(嘉永5年2月[1])- 1901年(明治34年)5月30日[1][2][3])は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、宮城県遠田郡不動堂村長。幼名・力三郎、のち和泉と称した[1]。
後藤敏康 ごとう としやす | |
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生年月日 | 1852年 |
出生地 |
日本 陸奥国宮城郡仙台 (現宮城県仙台市) |
没年月日 | 1901年5月30日 |
前職 | 農業 |
所属政党 | 自由党 |
選挙区 | 宮城県第3選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1894年3月 - 1897年12月25日 |
経歴
編集陸奥国宮城郡仙台(現宮城県仙台市[3])で、仙台藩宿老・遠田郡不動堂邑主の後藤家に生まれる[1]。馬術、文学を修めた[2][3]。
農業を営み[2][3]、不動堂村長を務めた[2][3]。1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(宮城県第3区、自由党)で当選し[4]、同年9月の第4回総選挙(宮城県第3区、自由党)でも再選され[5]、衆議院議員に連続2期在任した[2][3]。
脚注
編集参考文献
編集- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 菊田定郷『仙台人名大辞書』仙台人名大辞書刊行会、1933年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。