当麻山背
経歴
編集父は上総守従五位上当麻老。『続日本紀』巻第二十一によると、758年(天平宝字2年8月)の淳仁天皇の即位の日に正三位を授与され、大夫人(おおみおや、だいぶにん)と尊称された[1] 。だが、764年の藤原仲麻呂の乱の後、淳仁天皇は突如皇位を剥奪され、上皇号を許されず、「淡路国の公」とされ、配流された。その際、山背は廃帝に従ったという。2人は小子部門へゆき、道路にあった鞍つきの馬を捕まえて乗せられた。右兵衛督の藤原蔵下麻呂が淡路公たちを配所へ護送し、幽閉したという[2]。
その後の消息は不明であるが、『続紀』巻第二十六に描かれた、765年(天平神護元年10月)の淡路公の逃亡失敗の際に、亡くなっていた可能性もある[3]。
『続紀』巻第三十五によると、光仁天皇の代になって、778年(宝亀9年3月)その墓は「御墓」と称され、淡路公の墓も「山陵」と改称された。ともに、随近していた百姓(人民)1戸が墓守にあてられた、という[4]。