張象は呉末の游撃将軍であった[1]。
天紀4年(280年)、太康の役にて西晋の軍が20万を称する大軍で呉に攻めてきた。夏口や武昌を陥落したあと、王濬の軍は3月には三山に達した。孫晧は張象を石頭城に派遣し、舟師1万人軍を率いさせ西晋に抵抗を試みたが、呉の将兵に既に戦意はなく、王濬軍の旗を眺め見て観念し投降した[2]。
孫晧はさらに陶濬に大船と2万の軍を率いさせ抵抗しようとしたが、その兵たちも出撃前に殆どが逃亡した。ここに至り、呉には守備する将兵がいなくなってしまい、孫晧は3月15日に降伏し、呉は滅亡した。
張象のその後は不明である。
- ^ 前将軍だったという説もある。
- ^ 『晋書』王濬伝