陶濬
陶 濬(とう しゅん、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の武将。揚州丹陽郡秣陵県の人。父は陶基。兄は陶璜。弟は陶抗。子は陶湮[1]・陶猷[2]。孫は陶馥。甥は陶回。『三国志』呉志に記述がある。また、子孫や一族については『晋書』巻57 列伝第27 陶璜伝 に記述がある。
生涯
編集父は交州刺史であった。兄も交州方面で活躍し、後に使持節・都督交州諸軍事・前将軍・交州牧となった。弟は太子中庶子となっている[3]。
天紀3年(279年)夏、郭馬が広州で叛乱を起こした。郭馬は都督交広二州諸軍事・安南将軍を自称し、広州刺史と南海太守を勝手に任命した上で、さらに蒼梧郡・始興郡へ侵攻してきた。同年8月、滕脩が1万の兵士を率いて慌ただしく追討に赴いたが、始興で抵抗を受け先に進めなくなった。このため、徐陵督であった陶濬が7000人を率いて、兄と協力して援軍に赴くことになった[4]。
同年冬、晋が大軍を動員して呉に侵攻してきた。陶濬は交州への援軍に向かっている最中、武昌において晋の侵攻を聞いたため、広州には向かわなかった[4]。
翌天紀4年(280年)、呉軍が各地で敗北を重ねる中、陶濬は武昌より建業へと帰還し、孫晧に謁見した。陶濬は「益州方面から侵攻してきた晋の船は小さいものばかりであり、大船と2万の兵があれば撃退可能です」と上奏して許され、節と鉞を与えられた。陶濬が敗残の軍を一つにまとめて晋軍を迎え撃とうとしたが、一夜のうちに兵が怯え逃げてしまった。この一件で孫晧は完全に戦意を喪失し、降伏する事となった[4]。
呉における最終官位は、鎮南大将軍・荊州牧までになったという[3]。
晋朝では薛瑩らと同様に散騎常侍に就いたようで、『陶氏家傳』によると、博学で文章や応対が上手く、また容姿も美しく朝議で同僚らを導き、君子を推薦したとされる[5]。
2人の子はそれぞれ晋で官職につき、名声を得たという[3]。
小説『三国志演義』では、上記と同様に孫皓に晋軍迎撃を進言し、前将軍・張象と船に向かうと、突然の大風で旗が倒れ、不吉に思った兵士たちが逃亡してしまう、という史実を脚色した描写がされる。
家系図
編集陶基 | 陶璜 | 陶融 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶威 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶淑 | 陶綏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶濬 | 陶湮 | 陶馥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶猷 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶抗 | 陶回 | 陶汪 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶陋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶隠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶無忌 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||