延吉捕虜収容所(えんきつほりょしゅうようじょ)は、第二次世界大戦後の数年間、現在の中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州の州都・延吉にあった日本人捕虜を収容した捕虜収容所である。満州東部や朝鮮半島から多くの日本人捕虜が集められ、その後、ソビエト連邦へ送られた。1946年4月のソ連軍の撤退後は東北民主連軍(後に中国人民解放軍へ発展)が管理した。

概要

編集
 
延辺科学技術大学から延吉市街を望む(2005年)

延吉には日本の敗戦後、ソ連軍の手によって第1収容所(俗称28収容所・元関東軍28部隊の駐屯地)や第2収容所(俗称646収容所・元第646部隊駐屯地、現在は中国人民解放軍の駐屯地)、第3病院(元間島陸軍病院。後に中国人民解放軍二二三医院となり現在は「部隊医院」)が開かれ、日本人捕虜の集結地となった。

そのうち28収容所は延吉市街北端、北に行くにつれて穏やかな上りとなる丘の斜面に位置し、関東軍特種演習(1941年)時に建てられた20数個の木造兵舎を使用した。敷地面積は南北800メートル、東西1500メートルほとで、周囲は高さ約4メートルの有刺鉄線の柵で囲まれ、正面の入口に鉄道の踏切のように上下できる横木が設けられていた。この入口を入った左側にソ連軍の衛兵所があった。[1]

一方、646収容所は28収容所の西に位置した。28収容所よりも設備が整っており主に日本軍高官が収容された。

延吉捕虜収容所は、日本人捕虜をシベリアへ移送する前の中継地的な性格をもち、日本軍の第79・112・127の各師団、独立混成第132旅団、機動第1旅団、関東軍の第1方面軍・第3軍・第5軍各直轄部隊など42大隊約4万人が集められた。また朝鮮の平壌、興南、古茂山、富寧等から約1万8000名が送られ、その中に北朝鮮にいた警察官・官公吏ら約2800名を含んだ。[2]

1945年12月31日に一部捕虜を釈放

編集

1945年12月31日午後、延吉捕虜収容所から2000名余りの日本人が突然、釈放された。釈放されたのは主に朝鮮北部で拘束された人たちで、その中には山地靖之・平安北道知事、後に小説家となる新田次郎も含まれていた。食糧もなく薄着であったことから行き場もなく、その内50名は再び収容所に戻る。また延吉では多くの日本人の食糧を確保できないことから、再び朝鮮に戻るように延吉日本人居留民会の代表が説得。多くの人が朝鮮と長春へ向けて出発したが、それらの人々の多くは空腹と寒さのために犠牲になったといわれる。突然の釈放は捕虜の食糧を確保できないためであったとも言われる。[3][2]

1946年1月1日午前、釈放された日本人が省公署に集合しソ連軍と当局に援助を求める。その他約600名は南下を開始。南下しなかった196名は延吉公安局長に旅行証明書を交付するように交渉。1月1日、 延吉から南下した日本人約200名が龍井の病院地下室に宿泊。夜中に在留日本人が栗粥を炊き出し。1月2日には婦人会員の弁当が配られる。1月4日午後5時、31日に釈放され延吉に留まっていた日本人に対して旅行証明書が交付される。団長に山口・黄海道内務部長、副団長に宮崎・新義州税務署長が選ばれる。朝鮮・上三峰までは団体で行動、その後は自由行動となる。

午後一時になって、ソ連軍は第十八大隊(官吏・一般市民)を集合させ、人員を点検し、大隊の正門からつぎつぎ出していった。みな『これは変だ』と思っていると、ソ連兵がわれらの大隊の防寒具・外套・手袋などを片っぱしから奪った。大隊が本道路に出て進む間は、ソ連兵が守っていたが、半キロほど進んで、将官館の前まできたときに、いつの間にかソ連兵はいなくなって、われわれのみになった。みな呆然とした。結局、自由行動の身になったことを知った(「海州から三合里・延吉へ」須床達仁)

延吉で釈放された日本人の一部が平壌にたどりついた時の様子は、藤原ていが『流れる星は生きている―愛は死を越えて』の中で、「三、四人ずつグループになって、ぽつりぽつり帰って来た。しかも、その人たちの大半は帰っては死んでいった。共同墓地へ死骸を運ぶ行列が毎日のように続いていた」「三人は墓場から出て来た人の姿であった。どう見ても死人に近かった。耳は聞えない。口はきけない。足は立たない。うつろな眼だけが自分の身内を探して、それに焦点を合わせようとしてむなしく頭を垂れる」と描写している。[4]

延吉捕虜収容所で歌われた「延吉城外、宵吹雪」

編集

瞳をあげて鉄鎖の窓で、名もない小鳥に呼びかけた 風に柳の揺れるさえ、今日も病衣の胸痛む ふじ紫の可憐さを、紅の十字に染め書いた 看護(まも)るあの娘(こ)のやさしさに、延吉城外、宵吹雪(よいふぶき)(藤原雅英(著)『果てしなき山河に―終焉と黎明の鮮中ソ国境を行く』1977年)

捕虜の犠牲と集団埋葬地

編集
 
延吉市北部

延吉捕虜収容所では、1945年の秋から46年の春にかけて、飢餓や非衛生的な環境、胸部疾患、発疹チフス等の伝染病で多くの日本人が死亡した。

死亡者は1946年4月12日、合同慰霊祭を行った際に6876名、1948年6月までに8900名余りとされる。[5]

早蕨庸夫『延吉捕虜収容所』では、第三病院の死亡者(1945年9月~1946年4月末日)は1900名~2200名、646収容所の死亡者(1945年9月~1946年5月17日)は約3000名、28収容所(同時期)の死亡者数は2000名~3000名(推定)としている。

遺体は収容所附近に仮埋葬されていたが、春が近づき雪が解け、犬に荒らされるようになったため、1946年3月から4月にかけてソ連軍の命令で、第三病院裏や、646収容所前(将校・憲兵・特務機関員ら)、28収容所(主に下士官・一般兵)の裏山にあわせて1万名の遺体を埋める壕や穴が掘られた。

第三病院では日本人職員が協議し作業班を編成し、軍医看護婦も加わり全員で作業を行った。

ソ連軍のブルドーザーは、ビル建設の地下工事よりも大きな穴を、次々に掘った。直径50メートル、深さ一〇~二〇メートルはある巨大な墓穴だった。担架で運ばれてきた遺体は、穴の底に降ろされ、しだいに積み上げられていった。断崖の上には、終日一人の僧侶が立って、読経を上げていた。退院兵の中から、死亡者の供養のために残ってくれた人であった。三、四日で墓穴が一杯になるころには、隣に次の穴ができ上がっていた。一つの穴に、どれほどの遺体が埋葬されたのであろうか。それを、だれも確認する余裕はなかった。だから、正確な数をつかむことは困難だが、七百体か八百体、もしかしたら千体近く入ったように、私には思えた」太田正(著)『満州に残留を命ず』(草思社、1984年7月)

埋葬地にソ連軍が墓標(慰霊碑)を建てたという証言もあるが[1]、ソ連軍撤退後に破壊されたのか今は何も残っていない。日本人の埋葬地は、延吉の人口増にともない、現在は住宅地となっている。延吉北部丘陵に建つ延辺科学技術大学の建設時に「主人のいない共同墓地だった」ため大量の人骨が出たことは広く知られている。[6]

延辺大学科学技術学院は、この地で一番高い場所に位置している。本館から見下ろすと、延吉市街が一望できるほど眺めが良い。しかし、この場所を選んだのにはわけがある。1991年の大学設立時に、市政府は金鎮慶総長に、市内の土地を推薦してきた。だが、金総長は断った。「ここはあなた方の土地なので、良い場所はあなた方が暮らし、その代わりに私たちにはあの山をください」。よりによって、その山は共同墓地だった。みんなが反対したに違いない。しかし、金総長は信念を曲げず、結局、現在の場所になった。工事中に、主人のいない墓からはものすごい量の人骨が出たそうだ。[7]

1972年の日中国交正常化から間もない74年から76年にわたって、日中関係改善による中国政府の配慮に対する期待から、「旧満州国間島省延吉付近丘陵地の遺骨収集等に関する請願」が毎年国会に出され議決されたが、遺骨収集事業や公的な慰霊は実現していない。

戦後三十年、ソ満国境を初め、三十八度以北の地に、日本の繁栄をも知らず他界した人々は相当の数に上っている。これら、国外に放置されている戦没者に対する慰霊措置が行われて、初めて戦後処理が行われたというべきである。ついては、終戦後ソ連軍に連行され抑留中、殉職あるいは殉難し、また、旧満州国間島省延吉捕虜収容所で病死し、同地の丘陵地に埋没された人々を初め、付近のソ満国境に眠る幾万の同僚と同胞の墓参並びに遺骨収集を早急に実現されたい。(旧満州国間島省延吉付近丘陵地の遺骨収集等に関する請願 第二七一四号、1975年)

延吉捕虜収容所で日本人捕虜が犠牲になり、市街地そばに埋葬された歴史は、延辺では知られていない。延吉では、捕虜収容所のほかに、フルハト河の河原、旧延吉神社裏、偕行社、ドイツ教会に隣接した場所などにも多くの遺体が埋葬された。 引揚援護庁は、引揚げが完了する前の1947年ごろ、延吉における日本人死亡者数を暫定で1万8000人余りと公表している。[8]

フルハト河の河原や旧延吉神社裏は、当時日本人の土盛り墓がいっぱいだった。それが今は痕跡すらない。一体あの大量の遺骨はどうなったのであろう。翌日、延辺賓館の近く、旧拓殖公社の建物にある延辺日報社を訪ね、呉泰鎬総編集長と話したとき、大変ムードがよかったので、土盛り墓の遺骨がどうなったかたずねてみた。ところが呉さんは急に表情をこわ張らせ「それはもう過去のことです」と、強い口調ではねつけた。言外に「侵略者が何を言うか。散々迷惑をかけておきながら」という強い怒りを感じとった。[9]

ソ連軍の撤退と収容所の解体

編集

1946年4月10日、ソ連軍は東北民主連軍(東北民主連軍吉東保安軍吉林分区)に捕虜収容所を引継ぐ。捕虜処理委員会が成立し、日本人捕虜は農耕隊と生産隊に編成され農業や使役にかり出されるようになった。[10] 引継がれた捕虜はソ連において労働力として使えぬとみなされた日本人で、その数は約1200人。「満州に残留を命ず」では、延吉病院に約1000人、646収容所に約500人、28収容所に約300人と推定している。

1946年4月12日 亡くなった日本人捕虜のための慰霊祭が開かれる。

1946年4月末~5月 捕虜収容所の管理権を引き継いだ東北民主連軍は、第3病院長の元軍医中佐と646収容所の元主計小佐の両日本人幹部を殺害。

1946年6月25日、日本人の合同結婚式が第3病院の玄関前で開かれるも突然中止になる。第3病院の捕虜は28収容所へ移動するよう命令が下り、替わりに東北民主連軍の負傷兵が入る。

1946年8月、延吉捕虜収容所の鉄条網が撤去される。

1947年12月、28収容所には重病の日本人約100人が収容されていた。

満州の最東北端に近く、京図線上の延吉にあった捕虜収容所の敗戦の年の冬は、幾千とも知れぬ病死者が出て、その生活は地獄の一端を見るごとく悲惨であった。私もいく度かの危機に見舞われたが、こんな所で絶対死ぬものかとの気力と、当時二十歳そこそこの若さのお蔭か、何とか生き延びて、翌年の春を迎えることができた。その三月ごろ、ソ連軍が撤退し、八路軍と交替、長年日本軍と戦って来た八路軍は我々捕虜をどう扱うか、心配する者もあったが、彼等は来るとただちに、我々最下級の兵達を集め、「諸君は軍閥の犠牲になった人民であるからただちに収容所から解放するが、帰国する前に農村で本当の民主主義を体得してもらいたい」との趣旨の演説を行い、私たちはその翌日から、いく隊かに分かれて周辺の農村へ向ったのである。(今枝善也「朱学海さん一家」『されど、わが「満州」』文藝春秋編)

河南収容所(元・延吉監獄)に収容された満蒙開拓青少年義勇軍

編集
 
かつて監獄があった場所に建つ延吉の芸術劇場

延吉では捕虜収容所の他に、延吉監獄(現・延辺芸術劇場)にも元間島省の高官や民間の有力者、満蒙開拓青少年義勇軍の少年ら日本人が収容され、劣悪な環境のもとで、多くの人々が命を落とした。

また、溥儀夫人・婉容(満州国皇后)も1946年6月20日、延吉監獄で死亡したといわれる。遺骸は「延吉市南山」あるいは「北山」に葬られたといわれるが確かな場所は不明。 

監獄の夜は更に辛かった。全員七百名余り、二棟の、もと囚人が働かされたのであろう製縫工場の大広間に寝かされた。古麻袋を蒲団がわりにした。零下十数度の夜、ぼろぼろの夏服のまま麻袋をかぶってでは寒くて寝られない。うつらうつらとしては目がさめる。夜があけると、横に寝ていた仲間が口唇は黒く冷たくなり、動かなくなっている。息が絶えて二、三時間もすると固く棒のようになる。死んだ仲間の衣服は、すぐ年長者のボスに剥ぎ取られ着用された。仲間の屍は監獄内の倉庫に置いた。毎朝友の死体を倉庫に運ぶのが日課になった。朦朧とした精神状態に皆がなっており、悲しみの涙も出ない。今日の友の死は明日の我が身なのだ。僕は、せめて、倒れてゆく友の名前だけでも書きとめておきたいと思ったが、筆記用具もなにもない。友の屍は、日が経つごとに増え、一人一人並べて安置する場所もなくなってきた。息が断え、痩せ細った友の顔は凍ててどす黒くなると誰だかわからなくなる。変色し、変形してしまう。安置場所もせまくて置場に困り、死体の上に死体を積み重ねざるをえない。黒く凍った裸体の屍を、材木のように積み上げる。(中田慶雄「還らぬ友」 『元満蒙開拓青少年義勇隊第五次京都中村中隊記念誌 義勇魂』・1971)

日本人の引揚げと留用

編集

ソ連軍による抑留を免れた捕虜および民間の日本人は、1946年8月から9月にかけて、主に遼寧省の葫蘆島を経由して日本へ帰国した。ただ、医療関係者や特殊技術者は、国共内戦を戦う中共軍に長く留用された。

1945年9月 延吉で日本人居留民会が成立する。

1946年2月末 延安から日本人工作員が到着。

1946年8月13日 国民政府中央軍と八路軍の間で日本人遣送協定が成立。

1946年8月10日 吉林から退却してきた患者用列車が明月溝駅(安図)で事故を起こし、貨車内にいた日本人の医者・看護婦18名が死亡。8月20日、日本人を慰霊する「日本人十八烈士慰霊祭」が愛国館で盛大に挙行される。

1946年8月15日 延吉から日本人帰国第1団が出発。

1946年8月中旬、残留する日本人の医者や看護婦の士気を高めるため、慰安演芸大会を愛国館で開催。日本の看護婦一同が中国語で「東方明」を、八路軍の看護婦一同が日本語で「白百合」を合唱、中国の詩吟や踊りを披露。[11]

1946年8月31日、琿春地区の日本人に対して、9月2日に琿春を発ち帰国するよう命令が下る。9月5日、延辺地区で最後の日本人帰国団が延吉を出発。

1949年7月 延辺大学が開校。農業専科ら多くの日本人が教師を務める。

延吉と新田次郎

編集

小説家の新田次郎(1912~1980)も敗戦後の一時期を延吉で過ごした。

新京(現・長春)で敗戦を迎えたのち家族とともに北朝鮮に移動したが、新田次郎一人はソ連軍の捕虜となり延吉に送られた。1945年10月末から12月31日までの2ヶ月を延吉捕虜収容所に入れられたのちに釈放され、八路軍の技術者として雇われ冬を過ごし、夏になって日本人捕虜大隊の一員として葫蘆島遼寧省)より引揚げを果たした[12]

日本引揚げまでの経験は『望郷』『豆満江』『七人の逃亡兵』(『新田次郎全集9巻』に収録)に書かれているが、延吉捕虜収容所の経験は記していない。

この小説は、中共軍技術者として、延辺地区軍司令部にいたころから、胡盧島までの私の歩いた道を小説として書いたものである。ほんとうは、終戦の年の延吉捕虜収容所のことから書けばよかったが、一冬の間に、二万とも、三万ともいわれる病死者を出したこの収容所の生活はあまりにも悲惨に過ぎていて、なんとしても書くことができなかった。(『望郷』あとがき)

延吉捕虜収容所に収監された人物

編集

関連項目

編集

出典一覧

編集
  1. ^ a b 早蕨庸夫(著)『延吉捕虜収容所』(大門出版、1988年)
  2. ^ a b 森田芳夫(著)『朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』(巌南堂書店、1964年)
  3. ^ 武安素彦(著)『幻の間島省―ある日系官吏の記録』 (1983年)
  4. ^ 藤原てい(著)『流れる星は生きている―愛は死を越えて』(青春出版社、1971年)
  5. ^ 森田芳夫(著)『朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』(巌南堂書店、1964年)
  6. ^ 延辺科学技術大学 世界に向かう国際大学へ邁進 同胞トゥデイ(2014年9月5日)
  7. ^ ‘죽음’ 위에 핀 ‘생명’의 교육기관…옌벤과기대”. inews24. 2018年11月10日閲覧。
  8. ^ 太田正(著)『満州に残留を命ず』(草思社、1984年7月)
  9. ^ 夕映え. 山陽新聞社. (1994年6月) 
  10. ^ 今枝善也「朱学海さん一家」『されど、わが満洲』(文藝春秋・1984年3月)
  11. ^ 藤原雅英(著)『果てしなき山河に―終焉と黎明の鮮中ソ国境を行く』(1977年)
  12. ^ 藤原咲子 (2014年12月19日). チャキの償い―新田次郎、藤原ていの娘に生まれて. 山と渓谷社 
  13. ^ 沢田四郎作先生を偲ぶ会 (1972). 澤田四郎作博士記念文集 

参考文献

編集
  • 今村匡平(著)『赤い星の下で 解放軍々医留用8年の記録』(信毎書籍出版部、1967年)
  • 新田次郎(著)『新田次郎全集〈第9巻〉望郷・はがね野郎』(新潮社、1975年)
  • 藤原雅英(著)『果てしなき山河に―終焉と黎明の鮮中ソ国境を行く』(1977年)
  • 森田芳夫(著)『朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』(巌南堂書店、1964年)
  • 武安素彦(著)『幻の間島省―ある日系官吏の記録』 (1983年)
  • 太田正(著)『満州に残留を命ず』(草思社、1984年7月)
  • 早蕨庸夫(著)『延吉捕虜収容所』(大門出版、1988年)
  • 安達勝太郎(著)『夜陰のマンセイ 満州延吉捕虜収容所脱出一警察官の敗戦記録』(夜陰のマンセイ刊行会、1991年4月)