広野 織蔵(ひろの おりぞう、1862年8月3日文久2年7月18日[1]〉 - 1938年以降[注釈 1])は、日本実業家。衆議院議員を務めた広野規矩太郎は子息。

来歴

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廣野古矩の二男として[1]彦根に生まれる[3]。1915年当時は滋賀県士族であったと『人事興信録』に記されている[1]。兄は源太郞で、のちにその跡を継いだ[1]

幼少時は彦根藩藩校に学んだ後、彦根中学校(現・滋賀県立彦根東高等学校)を卒業した[3][注釈 2]。その後京都に出て儒学者の谷鉄臣・草場船山らに漢籍の指導を受けた[3]数え年21歳の時(1882年)に帰郷した[3]。広野は彦根商業銀行設立者の一人となり、同行は1901年に百三十三銀行(現・滋賀銀行)と合併した[4]。百三十三銀行では頭取にまで上った[1][4]。また1898年ごろに、経営危機に陥った近江鉄道に、当時の社長西村捨三に乞われて阿部市郎兵衛とともに経営に参加し、事業を立て直した[4]。このほか近江貯蓄銀行でも頭取を務めたほか、敦賀電燈の社長にも就いた[4]近江絹糸の初代社長でもあったが、同社の社史『オーミケンシ外史 五十年のあゆみ』(1967年)は、彦根の実業家数名の出資によって作られた会社で名目的な社長であったと記している[5]

1934年の時点では企業の役職はすべて退いていたと記されている[6]

家族

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出典は『人事興信録』第4版[1]

  • 妻:ふさ(1869年1月または2月〈明治元年12月〉 - ?)
  • 長男:規矩太郞(1886年1月 - 1961年昭和36年)12月21日[7]) - 衆議院議員
  • 次男:格義(1888年9月 - ? ) - 平野かねの養子となる
  • 三男: 経三(1891年6月 - ?)
  • 四男:四郞(1895年1月 - ?)
  • 長女:千恵(1896年6月 - ?)

脚注

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注釈

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  1. ^ 1938年9月12日付『官報』に、多賀大社への寄付により褒賞を受けたという記載がある[2]
  2. ^ 彦根藩校は1872年に廃校となる。1876年に「第三大学区第十一番中学区彦根学校」が改めて発足し、1877年に「彦根伝習学校」、1879年に「彦根初等師範学校」となった後、1880年に「彦根中学校」→「彦根公立中学校」となる。広野がどの段階で卒業したかは不明。

脚注

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  1. ^ a b c d e f 廣野織藏 - 『人事興信録』第4版(1915年1月(リンク先は名古屋大学大学院法学研究科の「人事興信録データベース」)2025年2月閲覧
  2. ^ 官報 昭和13年9月12日』、396頁(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ a b c d 近江人協会 編『近江人要覧』近江人協会、1931年、96頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1034239/1/83 (リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
  4. ^ a b c d 滋賀日出新聞社事業部 編『滋賀県人物名鑑 下巻』滋賀日出新聞社、1931年、185頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1106599/1/106 (リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
  5. ^ オーミケンシ外史 五十年のあゆみ』近江絹糸紡績総務部広報課、1967年、3頁https://dl.ndl.go.jp/pid/3442705/1/17 (リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 近江人協会 編『近江人要覧 訂再版』近江人協会、1934年、239頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1232225/1/138 (リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年、542頁。