平維扶
平安時代の官人
平 維扶[1]/惟扶[2]/伊扶[3]/惟輔[4](たいら の これすけ、? - 天暦2年2月29日(948年4月11日)?)は平安時代の官人。官位は四位・陸奥守。本康親王の孫か[4]。
時代 | 平安時代中期 |
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死没 | 天暦2年2月29日(948年4月11日)? |
別名 | 惟扶/伊扶/惟輔 |
官位 | 四位・陸奥守 |
主君 | 醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇 |
氏族 | 仁明平氏? |
父母 | 父:平?(源?)保望 |
経歴
編集延喜21年(921年)10月17日、空海が弘法大師と諡された際、その勅書を金剛峯寺に運んだ[5]。
延長6年(928年)と7年(929年)の10月の旬政では、左近衛少将として参朝しており、7年の際には少納言がいなかったため、維扶が召名をした[6]。
承平6年(936年)と天慶元年(938年)の1月4日、藤原師輔の大臣家大饗で請客使を務めた[7]。
承平6年(936年)12月16日、荷前使を病を称し懈怠した[7][8]。
天慶元年(938年)12月10日、五位以上の殿上の侍臣が、誰も宿直しなかった。このため、故障もなく参入しなかった惟扶と小野好古が勘責された[9]。
天慶2年(939年)、陸奥守となり、8月17日に白河家で藤原忠平から餞された[10][11]。10月、下向中に下野国府で平貞盛と合流し、共に陸奥へ向かった。しかし、貞盛は、平将門に追われたため、途中で雲隠れした(平将門の乱)[1]。
同9年(946年)12月26日、荷前で田原使を務めた。この際、天皇御前で幣物を舁き立てる場所を間違えてやり直した[7]。
官歴
編集系譜
編集新田(1988) p. 30と『尊卑分脈』による
脚注
編集- ^ a b 『将門記』。『新編弘前市史 通史編1(古代・中世)』 pp. 144-145
- ^ 『貞信公記』。『九暦』。『平安時代史事典』, 五島邦治, p. 1484
- ^ 『吏部王記』。新田(1988) p. 29
- ^ a b 『尊卑分脈』。新田(1988) p. 30
- ^ a b 『日本紀略』
- ^ a b 『吏部王記』延長6年10月1日、延長7年10月1日。『貞信公記』延長7年10月1日
- ^ a b c d e f 『九暦』
- ^ 外池(1986) p. 46
- ^ 『貞信公記』天慶元年12月18日
- ^ a b 『貞信公記』天慶2年8月17日
- ^ 新田(1988) p. 30
- ^ 『日本紀略』延喜21年10月17日。『吏部王記』延長4年11月15日
- ^ a b 『吏部王記』
- ^ a b 『貞信公記』
- ^ 『九暦』承平6年1月4日。天慶元年9月7日など
参考文献
編集- 摂関期古記録データベース
- 『日本紀略』, 「国史大系」
- 新田孝子「『大和物語』の女性名称 二 -「君」と「御」をめぐって-」, 『東北大学附属図書館研究年報』21号, 1988
- 外池昇「陵墓観の変遷」, 『成城文藝』115号, 1986