平家弘
平安時代後期の武将。従五位下・右衛門大夫、使。子に平頼弘(左兵尉)、平光弘、平康弘、平盛弘?、平時弘?、平安弘?
平 家弘(たいら の いえひろ)は、平安時代後期の武将。伊勢平氏の傍流平正弘の子。母は主計允佐伯貞義の娘。官位は従五位下・右衛門大夫。
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 保元元年(1156年) |
官位 | 従五位下右衛門大夫 |
氏族 | 伊勢平氏 |
父母 | 父:平正弘、母:佐伯貞義娘 |
兄弟 | 平維俊、家弘 |
子 | 頼弘、光弘、康弘、盛弘?、時弘?、安弘?[1] |
略歴
編集一族は平正度の弟正済の流れを汲み、信濃国に高田郷・市村郷(水内郡)、麻績御厨(筑摩郡)、野原郷(安曇郡)の4箇所の所領を持っていた。家弘は京において崇徳上皇に近侍し、久安6年(1150年)の興福寺の強訴の際には、検非違使として崇徳院御所に詰める。仁平3年(1152年)には崇徳院御所に乱入した源満義を捕縛している。
こうした縁から保元元年(1156年)の保元の乱においては、一族を率いて崇徳上皇方に参加。藤原頼長の行った除目によって源為義と共に判官代に任ぜられ、春日面の門の守護にあたる。味方の敗戦が決まり総崩れとなると、子の光弘と共に上皇を警護して戦場を脱出。この際、上皇の後を追って出家しようとしたが、上皇の反対によって思い止まったという。最後は京都大江山にて、子弟と共に足利義康の手によって斬首されている。
一族は所領のある信濃に下向し、兄の布施維俊は布施御厨、甥の富部家俊は富部御厨に土着した[2]。
脚注
編集- ^ 井原今朝男「中世善光寺平の災害と開発 : 開発勢力としての伊勢平氏と越後平氏」『国立歴史民俗博物館研究報告』第96巻、国立歴史民俗博物館、2002年3月、141-193頁、doi:10.15024/00001041、ISSN 0286-7400、NAID 120005748273。
- ^ 『長野県史 通史編 第1巻 古代1』p.820