市川兼恭
幕末・明治の蘭学者
(市川斎宮から転送)
市川 兼恭(いちかわ かねのり、文政元年5月11日(1818年6月14日) - 明治32年(1899年)8月26日)は、幕末・明治の蘭学者。オランダ語、ドイツ語を修得。西洋兵学を学ぶ。姓は源、幼名三輔。後、岩之進または斎宮、明治2年(1869年)9月逸吉に改める。号は浮天斎。父は広島藩藩医の市川文微。母は林氏政子。市川文吉は長男。
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略歴
編集福井藩で砲術師範となった。幕府天文台訳員を勤め、蕃書調所と開成所教授職を歴任。大番格砲兵差図役頭取勤方となる。電信機や活版印刷などの技術開発に携わる。維新後は陸軍兵学中教授となった。東京学士会院会員。
生涯
編集出自
編集- 安芸国広島に生まれる。
遊学
編集福井藩
編集蕃書調所
編集- 安政3年1856年 蕃書調所教授手伝となる。竹橋御蔵にある汽車模型、電信機[1]を動かすことが初仕事となった。同年にプロイセン王国の外交官フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルクが献じた電信機、写真機の伝習に加藤弘之とともに着任。[2]
- 安政4年1857年 スタンホープ手引印刷機[3]を、古賀謹一郎から動かすように命じられる。
- 万延元年(1858年)10月 器械学主任に命じられる。洋文書物『ファミリアル・メソード』が印刷された。当初はローマ字活字だったが、文久年間には邦文活字も作られて二十数部の書籍が発行された。
- 文久元年(1861年)4月 物産学取り立ての建白を行う。[4]
- 墓所は雑司ヶ谷霊園。
家族
編集逸話
編集清水卯三郎「和蘭文典前後編」によれば蘭学の文法書「セインタキス」を翻刻したのは箕作阮甫であるとしているが、市川兼恭「経歴談」[6]によると、市川が杉田のところにいた際に箕作から頼まれて版下を書き下ろして印刷したとある。[7]
著書
編集- 『遠西武器図略』[8]
脚注
編集参考文献
編集- 原平三『幕末洋学史の研究』1992年。ISBN 978-4-40-401900-4。ASIN 4404019009
- 小野寺龍太『古賀謹一郎 万民の為、有益の芸事御開』2006年。ISBN 978-4-62-304648-5。