川合宗見
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保18年(1733年) |
死没 | 天明7年6月12日(1787年7月26日) |
改名 | 友弥(幼名)→定安(初名)→宗見 |
別名 | 甚四郎(通称) |
墓所 | 兵庫県姫路市奥山仁寿山梅ケ岡の河合家墓所 |
主君 | 酒井忠恭→忠以 |
藩 | 播磨国姫路藩家老 |
氏族 | 川合氏 |
父母 | 父:川合定恒、母:籠谷高修の娘 |
兄弟 | 定連、宗見 |
妻 | 正室:林田藩士長野直通の娘 |
子 | 道臣 |
生涯
編集享保18年(1733年)、前橋藩酒井家家老川合定恒の次男として生まれる。
寛延2年(1749年)、幕閣への工作により、酒井家が姫路に転封となる。父定恒はこの転封工作に猛反対していたが、藩主忠恭の命で転封の事務を取り仕切る。寛延4年7月10日、父定恒が、転封工作を行った家老本多光彬、用人犬塚又内を自邸に招き殺害して自害する。川合家は断絶となり、宗見は、母や祖母と共に叔父松下高通に預けられ、五十人扶持が給された。同年8月、兄定連が新知500石で召し出され家老格となるも、病を理由に退進してしまう。
宝暦5年(1755年)、宗見が三十人扶持で召し出され書院番となり、川合家の家名再興が叶った。宝暦12年(1762年)1月、新知200石を賜り小姓番となる。 明和4年(1767年)9月、100石の加増を受け番頭となる。明和6年(1769年)2月、芸事奉行、明和7年(1770年)5月、100石加増、明和9年(1772年)1月、年寄役、安永4年(1775年)12月、加増200石、 安永6年(1777年)7月、城代を兼務することなり、安永7年(1778年)、400石の加増を受け父の旧禄1000石を回復し、家老となる。
参考文献
編集- 『河合寸翁大夫年譜』