川上 久林(かわかみ ひさしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将島津氏の家臣。

 
川上久林
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正4年(1576年
死没 寛永2年6月14日1625年7月18日
別名 通称:七助
戒名 鑑叟浄円居士
官位 左京亮
主君 島津義弘忠恒
薩摩藩
氏族 川上氏
父母 父:川上忠堅、母:園田実祐
新納忠堯
久如久盛
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生涯

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天正4年(1576年)、川上忠堅の子として誕生。

文禄元年(1592年)、島津忠恒の供をして文禄の役に従軍し朝鮮に渡海している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、島津義弘の陣に馳せ参じ、その退却戦で東軍の井伊直政軍が攻め掛かってくると、叔父・忠兄久智、及び押川公近久保之盛と共に下馬して踏み止まり奮戦、後に「小返しの五本鑓」の一人に数えられる。

久林は薩摩国高城[1]地頭を務め、慶長19年(1614年)の大坂の陣にも人数賦御使番衆33人のうちの一人として出陣している。

寛永2年(1625年)、死去。

脚注

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  1. ^ 現・鹿児島県薩摩川内市

出典

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  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)