島 高麿(しま たかまろ、1791年 - 1871年2月10日)は、飯田藩のお抱え絵師

本名は喜助。人物、花鳥を得意とし、画号は、高麿のほか、月信、高丸、考麿、国川などを用いた。幼少より画を好み、当時北宗画谷文晁と共に「天下の二老」と称された春木南湖に師事し、飯田藩のお抱え絵師となった。南信の神社仏閣に多数の奉納額が残るなど、伊那谷画界の先駆者とされる。

経歴

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1791年下伊那郡明島村(現在の泰阜村明島)の島岡家に生まれる。出生名は島岡 喜助だったが、同姓同名の人物がいたことから、岡の字を除いて姓に改めた[1]

1813年、南湖が飯田に半年間逗留した際に師事した。

壮年の頃、飯田扇町(現在の飯田市動物園付近)に移り住み、飯田藩主堀家のお抱え絵師となる。お抱え絵師は、藩の分限帳によると藩医に次ぐ職とされた。1834年の分限帳では、高麿と弟子の湖城喜一の二人がお抱え絵師であり[2]、高麿は国詰めとして飯田城に勤務した。

日常は藩主贈答用の注文画のほか、城中の障壁画の新規画や補修補筆、藩主所蔵画の修理、古画の複写、奥方やお女中などの使用品の装飾、加筆、更に現在の絵葉書にあたるような名勝、旧跡などの写真画などを仰せ付かった。神社仏閣への奉納額や個人の注文による肖像画も多く描いたが、藩主お抱えという事情から署名、捺印した作品は少ないとされる。

高麿は俳句や狂歌も得意とし、当時流行した俳句のチラシの版画などが飯田市立図書館に保存されている[3]

主な門人には古田鷹麿、桜井峯麿、唐沢湖城(湖城喜一)がおり、その他にも年麿、重麿、貞麿、清麿などがいた。高麿は習画の際、牧谿の虎画、京都泉湧寺の双龍、狩野系の大鷲を模写させたと言われる[4]

1871年2月10日80歳で没し、正念寺に葬られた。法名は「国川浄彩大悟」。

主な作品

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  • 「業平東下り図他(三幅対)」[5][6]
  • 「高砂尉姥図」[5][6]
  • 「恵比寿大黒天」[6]
  • 「養蚕之図」[5]
  • 「菅原道真」
  • 「地獄極楽の図」[7]
  • 「北原因信畫像」[8]
  • 「三国伝来之図」(元善光寺)[5]
  • 「江戸柿問屋絵馬」(立石寺、1814年)[9]
  • 「産湯」(挿絵、1841年)[10](pp42,44,45)
  • 「種痘のすゝめ」(版画、1850年)[11] 牛に乗った子供が槍で悪病神を射止める画に、最近発明された病魔除けの種痘は確実有利な方法だから励行するように、との文を記した版画。1849年に種痘法が日本に伝わり、藩が民衆の救済目的で最新の知識を周知しようとしたチラシである。
  • 「東下り」(駄科諏訪神社、1851年)[12]
  • 「飯田町商人連奉納額」(白山社、1856年2月)[13]
  • 「猫の俳画」(阿羅多堂、1864年5月)[13]
  • 「国川画の額」(稲伏戸薬師堂、1874年9月)[14]

脚注

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  1. ^ 「飯田の画祖 高麿(小林郊人)」『伊那』第324号、伊那郷土史学会、1955年5月、217頁。 
  2. ^ 『伊那』第581号、伊那郷土史学会、1976年10月、17頁。 
  3. ^ 「島月信の墓石復元へ 伊那谷画界の先駆者」『信濃毎日新聞』信濃毎日新聞社、1955年3月10日、南信版。
  4. ^ 『伊那』第333号、伊那郷土史学会、1956年2月1日、10頁。 
  5. ^ a b c d 『郷土美術全集 飯田・下伊那』 前編、新葉社、2003年3月、[要ページ番号]頁。ISBN 4-88242-136-4 
  6. ^ a b c 郷土日本画家遺作集』飯田市公民館、2007年11月1日、[要ページ番号]https://www.iida-museum.org/item/%E9%83%B7%E5%9C%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%94%BB%E5%AE%B6%E9%81%BA%E4%BD%9C%E9%9B%86/2025年2月13日閲覧 
  7. ^ 村沢武夫「島高麿伝」『北方の十王堂物語』村沢武夫、1975年4月、[要ページ番号]頁。 [要文献特定詳細情報]
  8. ^ 市村咸人『伊那史叢説』 第三篇、山村書院、1937年5月20日、[要ページ番号]頁。NDLJP:3440070 
  9. ^ 「飯田画壇と絵馬」『伊那』第657号、伊那郷土史学会、1983年2月、13頁。 
  10. ^ 木村八重子「「宝の島根」の挿絵について」『白百合女子大学児童文化研究センター研究論文集』第1巻、1997年、42-52頁、CRID 10505711721849793282025年2月13日閲覧 
  11. ^ 『伊那』第469号、伊那郷土史学会、1967年6月1日、32頁。 
  12. ^ 『伊那』第758号、伊那郷土史学会、1991年7月、1頁。 
  13. ^ a b 飯田文化財の会『絵馬奉納額を尋ねて』[[|南信州新聞|南信州新聞社出版局]]、2000年1月1日、[要ページ番号]頁。 
  14. ^ 泰阜村編さん委員会、泰阜村総務課 編『泰阜村誌』 下巻、泰阜村編さん委員会、1984年11月12日、733頁。NDLJP:12360055/2