島田糺
島田 糺(しまだ ただす、1853年2月22日(嘉永6年1月15日[1][2])- 1914年(大正3年)5月2日[3][4])は、幕末の土佐藩士、明治期の政治家・自由民権運動家・実業家。衆議院議員、高知県会議長。
経歴
編集土佐国吾川郡秋山村(高知県[4]吾川郡秋山村[2][3][5]、平和村、春野村、春野町[3]を経て現高知市春野町秋山)で、土佐藩士・島田佐一、亀の長男として生まれる[3]。藩校致道館で学んだ[6]。
1868年(明治元年)致道館砲術取立役に就任し、次いで藩兵小隊司令となる[2][3][4][5][6]。1875年(明治8年)区会議員となり、同議長、区長兼学区取締を歴任[2][3][4][5][6]。1880年(明治13年)高知県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長を務めた[2][3][4][5][6]。1887年(明治20年)三大事件建白運動で上京して保安条例違反として退去命令を受けた[3]。
また、1887年に高知県海面漁業組合頭取、高知物産会社頭取に就任し、高知商工会副頭取なども務めた[3][4]。
1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙で高知県郡部から立憲政友会所属で出馬して初当選し[2][3][7]、1903年(明治36年)3月の第8回総選挙(高知県郡部、立憲政友会所属)でも再選され[3][7]、その後同志研究会に所属して[3][4]衆議院議員に連続2期在任した[4][5]。
脚注
編集参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
- 田中重策編『新撰衆議院議員列伝』日本現今人名辞典発行所、1903年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。