島津 久敏(しまづ ひさとし)は、江戸時代前期の薩摩藩士。大隅郡垂水[1]領主。垂水島津家5代当主。

 
島津久敏
時代 江戸時代前期
生誕 慶長7年6月3日1602年7月21日
死没 寛永元年10月13日1624年11月23日
改名 菊袈裟丸(幼名)→久敏
別名 忠弘、久弘、又四郎(通称
墓所 東京都文京区本駒込三丁目吉祥寺
主君 島津忠恒
薩摩藩
氏族 垂水島津家
父母 父:島津久信、母:島津家久の三女
兄弟 久敏久章
養子:忠直忠紀
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経歴

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慶長7年(1602年)6月3日、垂水島津久信の長男として生まれる。幼名は菊袈裟丸。母は島津家久の三女で島津豊久の姉妹にあたる。父久信は、義久の外孫として島津宗家の後継候補の一人で、義久の婿養子の忠恒(家久)と家督を争った。

慶長14年(1609年)、幕府の証人として江戸に下る。元和2年(1616年)、父久信が、久敏の廃嫡を画策して自身の重臣を手討ちにしたことで、忠恒に不行跡を理由に隠居を命じられ、代わって家督を相続した。家中では「脇の惣領」と呼ばれる、宗家に次ぐ家格であった。

寛永元年(1624年)10月13日、江戸で死去した。享年23。

久敏には弟の久章が居たが、垂水家を継ぐことは許されず、寛永6年(1629年)に忠恒の三男忠直(久直)が久敏の継嗣と決められ、垂水の仮屋に入る。寛永10年(1633年)に忠直は北郷家を相続することになり、寛永11年(1634年)5月、同母弟の忠紀が代わって垂水家の継嗣と決められた。

寛永14年(1637年)に久信が死去し(毒殺説がある)、忠紀が家督を相続した。

脚注

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参考文献

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  • 『垂水市史』第1巻 垂水市史編集委員会、1973年