岩田徳治

日本の実業家、政治家

岩田 徳治(いわた とくじ、1894年12月15日 - 1982年2月20日)は、日本実業家政治家岩田建設の創業者。北海道議会議員(4期)。

生涯

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札幌村(現在の札幌市東区)出身。岩田家は富山県江戸時代から続く瓦工場であったが、徳治の両親は西南戦争後の不況により土地家屋を手放し、1890年(明治23年)北海道に渡り現在の丘珠町に入植した[1]。丘珠尋常小学校(現・札幌市立丘珠小学校)卒業後、家業の農業の手伝いに励む。14歳のときに苗穂町(現在の本町)に居を移し、長兄が早逝したため18歳で家督を相続する。北海中学校(現・北海高等学校)卒業。

大星組などを経て1912年から義兄・村上六松が営む合資会社村上組で帳場を担当。その後、同社で支配人となる。1922年村上組から独立する形で岩田組を創業。同社初代社長に就く。1934年より札幌村会議員、1941年北海道土木建築工業組合監事、1942年村会議長。その後、北海道建設業協会理事。1949年岩田建設に商号変更し、引き続き同社代表取締役社長に就く。

その後、建設事業札幌協会会長。1955年より札幌市議会議員。1959年より4期16年にわたって北海道議会議員(札幌市東区選出、自由民主党)を務めた。札幌村時代から消防組頭を務め、札幌市東消防団長、第4代北海道消防協会会長を歴任するなど、消防との関わりが深かった。1960年岩田建設代表取締役会長に就任。1963年藍綬褒章受章。1972年、道議会札幌オリンピック特別委員長。1982年2月20日逝去。逝去後、1982年10月に岩田徳治翁顕彰碑が苗穂神社内に建立された。

家族には、長男に岩田建設元社長の岩田巌、次男に岩田建設元社長の岩田基義、孫に岩田地崎建設社長・札幌商工会議所会頭の岩田圭剛がいる。

エピソード

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  • 創業当初は、行啓通り修繕・広島町駅前道路敷設・恵庭市駅前道路敷設などを手掛けたが、やがて、野幌国道12号線橋建設を皮切りに札幌市内では、一条橋・南九条橋・五輪大橋一条大橋・環状北大橋。石狩川流域では奈井江大橋・妹背牛橋など。夕張川流域では夕張橋・江別橋など。天塩川流域では中川橋・歌内橋。古平川流域では古平橋と数多くの橋を手掛け「橋の岩田」と称された。
  • また橋以外にもUR都市機構札幌北二十四条市街地住宅・札幌市北区役所庁舎・札幌市役所庁舎・札幌市水道局庁舎・札幌市青少年科学館・北海道立スポーツセンター・北海道立図書館学校法人北海学園の大学や高等学校の建設改修なども手掛ける。

参考

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  • 「北海道の顔 ヘビー級の押しと耐久力」『北海評論 20巻8号』(北海評論社、1965.10、7頁)
  • 高木正雄『北海道建設人物事典』(北海道建設新聞、2008)
  • 奥田二郎『風雪の人 岩田徳治』(奥田書房、1966)
  • 奥田二郎『風雪85年 岩田徳治』(奥田書房、1978)
  • 奥田二郎『心に生きる 岩田徳治翁』(奥田書房、1983)

脚注

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外部リンク

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