岩滝藩(いわたきはん)は、美濃国各務郡岩滝(現在の岐阜県岐阜市岩滝地区)を居所として、江戸時代中期にごく短期間存在した。1705年、当地の領主であった本庄道章が加増を受け、1万石の大名となったため成立した。1709年に同国山県郡高富(岐阜県山県市高富)に居所を移したため、以後は高富藩と見なされる[注釈 1]

歴史

編集
 
 
岐阜
 
高富
 
岩滝
関連地図(岐阜県)[注釈 2]

前史:本庄家

編集

藩主家の本庄家は、徳川綱吉の生母・桂昌院の異母兄である本庄道芳を祖とする家である[注釈 3]。同族では本庄宗資(桂昌院の同母弟)が先に大名に列している[4][注釈 4]

道芳はもともと二条家に仕えていたとされるが[5]、綱吉に附属されてのちに館林徳川家の家老となった[5]。慶安4年(1651年)に上野国新田郡邑楽郡内で2000石の知行地を与えられ、寛文元年(1661年)に美濃国各務郡下野国梁田郡内で2000石を加増されて[5]、最終的に4000石を知行した[6]。道芳は寛文8年(1668年)に没し[6]、父の跡を継いだ本庄道高の代で綱吉が将軍に就任した[6]。道高は元禄10年(1697年)に没した[6]

道高の子が本庄道章であり、父の死によって15歳で家督を相続した[6]。元禄11年(1698年)、上野国邑楽郡の領知を下野国梁田郡・足利郡内に移された[6]。元禄12年(1699年)に中奥小姓となり従五位下和泉守に叙任[6]、元禄16年(1703年)に小姓となり宮内少輔に改めた[6]

立藩から高富への移転まで

編集
 
岐阜市岩滝西三丁目にある、岩滝陣屋跡を示す標柱。明治時代に設置された推循小学校(岐阜市立岩小学校の前身)の跡地であることが併せて記されている[注釈 5]

宝永2年(1705年)3月23日、本庄道章に美濃国山県郡方県郡内で6000石が加増され、合計1万石の大名となった[6][注釈 6]。道章は美濃国各務郡岩滝を居所とし[6]、6月10日に領知朱印状が下された[6]。これにより岩滝藩が成立した。

宝永6年(1709年)1月10日に綱吉は死去し、2月21日に道章も小姓の務めを辞した[6]。8月、居所を山県郡高富村に移した[6]。これ以後、本庄家の藩は「高富藩」と見なされ、幕末・廃藩置県まで存続する。

歴代藩主

編集
本庄家

1万石。譜代

  1. 本庄道章

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 事典によっては岩滝藩に独自の項目を立てず(一つの藩として扱わず)、高富藩の歴史の一部として扱う。『角川日本地名大辞典』では「岩滝藩」の項目はないが、岩滝藩が陣屋を移して高富藩に「改称」したとの記述がある[1][2]。『藩と城下町の事典』は「岩滝藩」で項目を立てていないが、「高富藩」の項目において、1705年に「1万石を領して諸侯に列し、陣屋を岩滝村に構えて立藩」、1709年に「陣屋を山県郡高富に移して高富藩を発足させたので、岩滝藩は廃藩となった」との記述がある[3]
  2. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  3. ^ 本庄宗正の子。『寛政譜』によれば道芳の生母は波々伯部安忠の娘、桂昌院・宗資姉弟の生母は鍋田氏。
  4. ^ 宗資は元禄元年(1688年)に下野足利藩主となった。本記事の岩滝藩が成立した1705年時点では、宗資の子・資俊が遠江浜松藩7万石を領していた。宗資の系統(本庄松平家)は18世紀半ば以後、丹後宮津藩に定着した。
  5. ^ この地は鎌倉時代の小島二郎重俊(清和源氏満政流小島氏の祖・小島重平(浦野重直の子)の子)の館跡とされており、画像の視点から見て標柱の裏側にその旨が記されている。
  6. ^ 同日、同族の浜松藩主・本庄資俊に松平の家名を名乗ることが許された。

出典

編集
  1. ^ 小曽根村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年12月12日閲覧。
  2. ^ 高富藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年12月12日閲覧。
  3. ^ 『藩と城下町の事典』, p. 307.
  4. ^ 深井雅海. “本庄宗資”. 朝日日本歴史人物事典. 2024年12月17日閲覧。
  5. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第千四百「本庄」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.348
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m 『寛政重修諸家譜』巻第千四百「本庄」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.349

参考文献

編集