山陽山淺一
山陽山 淺一(さんようざん せんいち、1915年8月7日[1] - 没年不明)は、岡山県小田郡(現在の笠岡市)出身[1][2]で、出羽海部屋所属[1][2]の1940年代に活躍した元大相撲力士。本名は、藤井 浅一(ふじい せんいち)[1][2]。現役時代の体格は身長185cm、体重96kg。得意手は突っ張り、寄り、上手投げ。最高位は東十両3枚目。
来歴
編集1930年5月場所に初土俵。1940年1月場所に十両昇進[1][2]。柔軟な体格から繰り出す突っ張りを持ち味とし、その取り口は闘志に溢れていた。新十両の場所を8勝7敗と勝ち越すと、1941年5月場所には自己最高位となる東十両3枚目まで番付を上げたが、2勝13敗と大敗し、幕下へ陥落した。翌1942年1月場所では幕下優勝を果たして1場所で十両へ復帰した。十両下位で2勝13敗と大敗した1943年1月場所限りで廃業した[1][2](続く1943年5月場所は幕下力士として番付に名前が載ったのみ)。
主な成績
編集- 通算成績:93勝105敗9休 勝率.470
- 十両成績:34勝56敗 勝率.378
- 現役在位:19場所
- 十両在位:6場所
- 各段優勝
- 幕下優勝:1回(1942年1月場所)
場所別成績
編集春場所 | 三月場所 | 夏場所 | 秋場所 | |||
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1930年 (昭和5年) |
x | x | (前相撲) | (前相撲) | ||
1931年 (昭和6年) |
西序ノ口6枚目 – |
西序ノ口6枚目 – |
東序二段27枚目 – |
東序二段27枚目 – |
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1932年 (昭和7年) |
西序二段24枚目 –[3] |
西序二段24枚目 – |
西三段目34枚目 – |
西三段目34枚目 – |
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1933年 (昭和8年) |
西三段目15枚目 – |
x | 東三段目21枚目 – |
x | ||
1934年 (昭和9年) |
東三段目24枚目 – |
x | 西三段目5枚目 4–2 |
x | ||
1935年 (昭和10年) |
西幕下17枚目 6–5 |
x | 西幕下9枚目 6–5 |
x | ||
1936年 (昭和11年) |
西幕下4枚目 1–5–5 |
x | 東幕下19枚目 6–5 |
x | ||
1937年 (昭和12年) |
東幕下12枚目 5–6 |
x | 西幕下22枚目 8–5 |
x | ||
1938年 (昭和13年) |
西幕下9枚目 4–5–4 |
x | 西幕下26枚目 3–4 |
x | ||
1939年 (昭和14年) |
西幕下29枚目 4–3 |
x | 東幕下17枚目 5–3 |
x | ||
1940年 (昭和15年) |
西十両15枚目 8–7 |
x | 西十両8枚目 7–8 |
x | ||
1941年 (昭和16年) |
東十両8枚目 9–6 |
x | 東十両3枚目 2–13 |
x | ||
1942年 (昭和17年) |
東幕下筆頭 優勝 7–1 |
x | 東十両7枚目 6–9 |
x | ||
1943年 (昭和18年) |
東十両12枚目 2–13 |
x | 西幕下8枚目 引退 0–0–0 |
x | ||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴
編集- 小藤井 淺一(こふじい せんいち)1930年5月場所 - 1937年1月場所
- 山陽山 喜久光(さんようざん きくみつ)1937年5月場所 - 1941年1月場所
- 山陽山 淺一(さんようざん せんいち)1941年5月場所 - 1942年1月場所
- 山陽山 喜久光(さんようざん きくみつ)1942年5月場所 - 1943年1月場所
脚注
編集参考文献
編集- 小池謙二『大相撲星取大鑑』昭和編第1巻、医聖社、1986年
- 昭和の大相撲刊行委員会/編『昭和の大相撲 資料編』TBSブリタニカ、1989年