山本 実庸(やまもと さねもち)は、幕末公家、明治から大正期の宮内官・政治家華族貴族院子爵議員

 
山本実庸
山本実庸
時代 江戸時代後期 - 大正時代
生誕 安政4年9月1日[1]1857年10月18日
死没 大正4年(1915年11月16日[1][2]
別名 實庸
主君 孝明天皇明治天皇
氏族 山本家
父母 父:山本実政、母:家女房
兄弟 実庸玉松真幸穂穙俊香、泰子
卜半寿子(卜半了達の二女)
公茂、章子、具子、公富、糸子
養子:公慶
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経歴

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山城国京都右近衛権中将山本実政の長男[注 1]として生まれる[1][3]万延元年11月1860年12月 - 1861年1月)従五位下に叙され、慶応元年5月1865年5月 - 6月)に元服して昇殿を許され従五位上に叙された[4]。父の隠居に伴い、1875年(明治8年)10月23日、家督を相続[1][3][5]1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[1][3][5][6]

1876年(明治9年)12月、淑子内親王家祗候に就任[2][3][5]。以後、京都宮殿勤番、殿掌などを務めた[2][3][5]1897年(明治30年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[7][8]1911年(明治44年)7月9日まで2期在任した[2]

栄典

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系譜

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1916年生まれ。大覚寺前の宮大工の今井小三郎・やな夫婦の里子として育てられ、5歳で大聖寺 (京都市)を経て伏見宮邦家親王第7王女・文秀女王が門跡を務めていた円照寺に入山し、1939年に同寺の10代目住職となる[16]。華道・山村御流の家元として三笠宮妃、常陸宮妃ら旧皇族や女官らに挿花を教えたほか、高島屋でも教えた[16]。著書に『花のこころ―奈良円照寺尼門跡といけばな』 (主婦の友社、1968)など。大正天皇の娘とする説がある。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『華族畫報』上、97頁では二男。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『平成新修旧華族家系大成』下巻、815-816頁。
  2. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』59頁。
  3. ^ a b c d e 『人事興信録 4版』や89頁。
  4. ^ 『大日本華族大鑑』156頁。
  5. ^ a b c d 『華族畫報』上、97頁。
  6. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、7頁。
  8. ^ 『官報』第4248号、明治30年8月28日。
  9. ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
  10. ^ 『官報』第989号「叙任及辞令」1915年11月18日。
  11. ^ 『幕末公家集成』167頁。
  12. ^ 維新史料編纂會 (1929). 現代華族譜要. 日本史籍協会. p. 694. NCID BN15449470 
  13. ^ 村上はつ「明治・大正期における名古屋旧有力商人の企業者活動」『経営史学』第14巻第3号、経営史学会、1979年、71-86頁、doi:10.5029/bhsj.14.71ISSN 0386-9113NAID 130001596837 
  14. ^ 山本公茂『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  15. ^ 今井小の実「愛国婦人会と社会事業 : 大正後期の山口支部の活動に焦点をあてて」『Human welfare : HW』第12巻第1号、関西学院大学人間福祉学部研究会、2020年3月、71-86頁、ISSN 1883-2733NAID 120007033213 
  16. ^ a b c 玉川信明『エロスを介して眺めた天皇は夢まぼろしの華である : 御落胤と偽天皇』社会評論社、1990年、95-106頁。 NCID BN05395830。「河原敏明「三笠宮は双子だった」」 

参考文献

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日本の爵位
先代
叙爵
子爵
羽林家山本家初代
1884年 - 1915年
次代
山本公茂